2017年4月27日

森の鈴蘭の集落には幸運とカメラの基本

蕾が出て来た鈴蘭の葉の多い集落

想定では花が咲くのは来週以降だけれども待ち切れなくて森の鈴蘭の集落を又直ぐに見に行ってしまった。

葉っぱはどんどん広がっているし、蕾の数も相当に増えている。数日前とは本当に見違えるし、花が咲くのは間近だと勢いの良さを感じさせる。

大きな葉に囲まれた鈴蘭の蕾

どのくらいの速度で成長するのかが分からないし、知らないので、しっかり覚えておきたいという気持ちも大きい。好きな花の鈴蘭だから少しでも見逃せないわけだけれども身近な森で集落が見付かったのは奇跡だと改めて神に感謝せざるを得ない。初めて喜んだ去年はもう既に枯れかけていたし、折角の機会ならば一年越しの巡り合わせだ。長々と待ちながら実際に戻って来られたのはやはりまさかの幸運だろう。鈴蘭の集落が素晴らしいだけではなくて自殺したいままの状態が酷くても良く生き延びている。真っ先に癒される森がある。人間にとって好きな気持ちこそ不遇に強いのではないか。希望を持てば絶望に打ち勝つのは容易いのが道理だろう。真っ盛りで数多く咲き捲っている鈴蘭の様子が新しく目に浮かぶほどに楽しみでならない。

最も下の蕾が咲いた鈴蘭の一房

鈴蘭は一房の下の蕾から咲いて行く。茎が伸びて行った上の蕾は出るのが遅いから後から咲くんだ。蕾と花が上と下ではっきり分かれていると如何にも神秘的な印象を与える。成長の流れが時間を止めたように伝わって来るよ。

幾つか花が見付かって必死に写真に収めたものの殆どが失敗だった。大きさは手の小指の先くらいしかないから輪郭を取るだけでやはり精一杯だろう。ピントが外れるのは辛い。

しかし一眼レフのカメラでレンズを開放絞りにしてシャッタースピードが1/1000s前後ならば良い感じかも知れない。最大限に光を取り込むと共に手振れを減らして撮影すると成功を増やすというとカメラの基本だろう。被写体が難しいほどに疎かにしてはならない。

鈴蘭から学ぶし、初心に帰るけれども写真撮影は描き込みに向いた方法を少しでも多く取り入れるようにすると有利だ。

2017年4月26日

鈴蘭の蕾に待ち遠しい初夏へのカメラ考察


森へ行くと鈴蘭が蕾を覗かせていた。四日前の写真撮影で立ち寄ったら茎だけだったから早いと驚いた。もう直ぐに満開だろう。初夏の息吹きを感じる。鈴蘭の花が待ち遠しくも写真に収めるならば来週一杯こそ最高に違いない。再来週以降も暫くは枯れないにせよ、雨風で汚れたり、蜘蛛の巣が張ったりするので、真っ白なままを端的には狙い難そうではないか。

しかしやはり本当に厳しいのはピント合わせだ、カメラにおいて。鈴蘭の蕾を撮りながら一年振りに思い知らされる現実だった。天気は快晴で、シャッタースピードも四桁の1/1000sだから手振れの心配はなかったのに仕上がりに気乗りしないのは描き込みなんだ。似た花のスノーフレイクは四日前の写真撮影でもまずまずだったけれども鈴蘭は小さい分だけ写りが悪くなってしまう。白一色の花でコントラストも低いかぎり、カメラはフルサイズのセンサーでなければ描き込みが不足せざるを得ないようだ。

α5100では完全にお手上げだと感じるよ。高解像レンズのマクロプラナー、Touit 2.8/50Mを着けているにも拘わらず、撮影した写真がいつもイメージ通りに仕上がってくれない。数多く試しながら構図を選び出す以前に納得できないというか、どうにもかっちり写らないので、最初から無駄な努力を積み重ねないためには考え方こそ変えるべきなんだろう。

鈴蘭の花や蕾の写真撮影は輪郭だけ大きく崩れなければ上出来という仕方で取り組むしかない


愛用のカメラとレンズのα5100Touit 2.8/50Mで、一等に好きな花の鈴蘭が弱点の少ない光の状況を克服しても望んだ写真を表現できない気持ちは悔しいにせよ、他の仕方が全くないわけではないからよもや落ち込み過ぎても頂けない人生だとはいっておきたい。

鈴蘭にはピントが合わせ辛くて狙う位置が狭いけれども、その代わり、周りのぼけは物凄く利いて来るという写真撮影が可能なんだ。

作例はちょっと寄っただけでも幻想的な雰囲気が余程と大きく広がっているのが驚かされる。ぼけで被写体を包み込むようなスタイルが大事ではないか。すると輪郭が幾らか緩んでも気にならない写真が得られそうだ。鈴蘭でなくても写真撮影でいつも考えて損はないし、仕上がりにおいて味わい深さに繋がって来る。重視して然るべきなのはまさか間違いない、写真家として。

鈴蘭は普通に表現するのは大変な被写体だけれどもカメラで周りのぼけを活かした構図から写真の味わい深さを学ぶのにはすこぶる役立つわけなので、しっかり勉強して行けばきっと却って他ではあり得ないくらい速やかに上達するように期待されてしまうから有り難い。

2017年4月25日

真っ朱な山躑躅を写真に収められただけでも胸一杯の思いがするのは情熱の光のせいだ

山躑躅の花

山躑躅が晩春の山を朱く染め上げていて衝撃的だった。驚くのは自分自身で、昔は気にも留めなかった。

山といえば衝撃的なのは真夏だけれども虫だったし、甲虫鍬形虫を取る以外に好奇心はなかったはずだ。植物も出会いたい虫がやって来易いの木こそ素晴らしいみたいな感じで、他には見向きもしなかった。

年のせいではない、変わったのは。詩だ。というか、かつて作詩の公園を運営しながら詩人を明らかに自認してから命を公平に捉えなくてはならないと考え出したんだ。

元々、なぜ動物よりも植物には引き付けられないのかを訝っていたけど、引き付けられるべきだし、ちゃんと自分らしく生きるならば好きに向き合うのが正しかったわけだ。

石を喜ぶのも同じ気持ちだ、命として根源的には。動物や植物を有機物とすれば無機物も生きているのが宇宙の真髄ではないか。まさか引き付けられない理由もなかったらしい。

満開の山躑躅

山躑躅が一斉に咲いていると山が燃え盛るみたいに生きている万物の命の輝きを感じる。象徴的に味わわせるのは山のせいだ。気付くまで知らなかった全てがそこにあるような歴史の詩に他ならない。世界にとって山は真実そのものだから咲き出した山躑躅は情熱なんだ。求めずにまさか手に入らない。山は知らなければ気付かなかった全てを偉大に包み込んでいる。すると命の輝きは情熱の光だし、真実そのものを手に入れてこそ生きている万物も満足するわけだ。些細な日常ならば造作ないにせよ、本当に尊い。

花言葉を調べると「燃える思い」や「努力」や「訓練」と本当に相応しいかぎりだろう。他にも「曖昧」や「どっち付かず」と、丸っきり、正反対のイメージがあって驚くけれども人間ならば自分に厳しくて他人に甘いみたいな感じから二つに分かれているのかも知れない。

山躑躅は日本では全国的に見られるらしい。春の野山を素晴らしく彩る花だ。俳句でも春の季語になっている。四月から六月にかけて開花するんだ。実が生るのは八月から十月にかけての間みたいだから秋に多い。

植物としては葉っぱが特徴的で、春葉と夏葉を備えている。前者は秋に、後者は一部が越冬して春に次のものへ完全に生え替わるために、一年中、葉っぱは落ち切らずにどちらかが残っているらしい。なので半落葉樹/半常緑樹という性質を持っている。

快晴の山躑躅

僕は胸一杯の思いがするよ、真っ朱な山躑躅を写真に収められただけでも。

かつて山へ分け入って甲虫や鍬形虫を見付けたのと気持ちは本当に変わらない。

情熱の光は物事に満足するほどに生涯を貫いている。自分らしさから生活を豊かにするための知恵といっても良い。幸せを望むならば覚えておくしかない。いつも不満ばかりでは命の輝きは減ってしまう。失望しながら消し去るよりも情熱の光で照らす方が存在には相応しい。背負うのは不幸ばかりと短い生涯を送りたくはなかったはずではないだろうか。

今日が劣っていれば明日は優れるように一つの経験として身に付けながら期待値を上げて有意義な人生へ繋げるべく内面的に取り計らおう。

真っ朱な山躑躅

山躑躅に学ぶ、情熱の光が大切だと。山が燃え盛るように真っ赤だから真実そのものと向き合わされるためだった。

なぜ生きているのか。暗い存在では死ぬしかないだろう。命の輝きが必要なんだ。いつでもどこでも本当に生きているならば明るい存在でしかない。手に入れては世界も幸せな気持ちのかぎりだと分かる。

羨ましいくらい元気が溢れている山躑躅には明るい存在を目覚ましく触発されてしまう。

2017年4月24日

ピンクと白の芝桜で希望を引き寄せる自己啓発

ピンクと白の芝桜

芝桜が可愛い。地面にびっしり生えて咲き出すと踏み潰して歩くのも忍びない思いに駆られる。しかし何気なく歩いている道も普段から同じではなかったか。有り難みを受け取るほどに芝桜に喜びが膨らむんだ。人生は尊いし、道なしには生活も苦しかったはずだから感謝するには越さない、神へ。

するとピンクと白は気持ちに正しく当て嵌まる。芝桜は忍びない思いと人生の尊さのためにピンクと白が似合っているのではないか。自然に受け取るかぎりの神のメッセージだと感じてしまう。ピンクと白の芝桜は本当に美しいし、イメージは晩春から初夏への移り行く季節の詩そのものだ。

素晴らしかった春に別れを告げながら新しく素晴らしいはずの夏との出会いへ明るく期待して行くわけなので、それぞれが通じ合う真実の喜ぶべき繋がりに気付けば芝桜は象徴的に輝かしい花だった。

芝桜いとも容易く澄んだ風

人生で道に迷うとは風向きが読めないに等しい。もしも吹いているならば風に乗ってこそ成功へ近付くだろう。追い風を掴むのは大変だ。頑張っても頑張っても死ぬしかないのではないか。災いに包み込まれて不幸なかぎり、人間が笑うのは奇跡だから全ては自然に委ねるしかない。結局、神頼みで道が開かれるのを待つように努力するのが最善策なんだ。

どんなに虚しくても日々が徒労そのものでも現世で夢を叶えるためには少しでもやり残すわけには行かないはずだ。

芝桜は吉兆を予感させるから心強い。好調ならば造作ないのも人生だ。覚えておくと有利だ。何事もイメージが醜くてはうんざりさせられるし、やる気も萎えるばかりだから生きた心地もしなくなる。夏が春にも況して気持ち良く訪れるように辿り着く未来を望んでこそ力も出し切れるに違いない。笑うしかないし、本当に面白いよ。

自己啓発に等しい。人生のイメージを美しく高めては目標を実現する世界だけが逸早く必要だ。落ち込んでいる暇はない。夢は叶うんだ。辛くても苦しくても諦めている場合でもないし、どうせ死ぬならば地獄で恥じないように情熱を燃やし尽くせ。

奇跡を求めて前進するのが人間なんだ。失敗だらけの毎日でも足元を掬われるべきではない。当たり前の悲しみならばもはや驚きもしないだろう。芝桜の忍びない思いから人生は尊いと知るかぎり、後押しされるようにもはや自分らしさから前進あるのみだった。

目標の実現を神へ祈りながら一生懸命に努力すれば良い。叶わない夢が納得された生活では逆らうのが大変だけれども愉快なのも本当だ。自由に励んでこそ世界は素晴らしく輝き出すわけで、生きる喜びをかけがえもなく受け取っている。

止められないくらい正しいのに諦められるか。気持ちを捨てなければ頑張れるとも決まっている。残された可能性が希望を引き寄せると情熱も燃え盛るばかりだ。僅かでも構わない、いっそ。果敢に挑みながら道を切り開いて行くのが楽しい。

2017年4月23日

Google2段階認証プロセスのアカウントのセキュリティーを高めるための確認手順と注意点

Googleアカウントのセキュリティーを高めるためにGoogle2段階認証プロセスを使用している。

初めは名前だけ聞いて意味が良く分からなかったし、アカウントのセキュリティーを高められてもログインに手間が増えて面倒臭いに過ぎないと避けていた。

しかしサイト広告をGoogleアドセンスで取り入れているし、アカウントが同じなので、誰かに乗っ取られると生活費を稼ぐという全ての苦労が水の泡と消え失せてしまう。金銭が絡むと危険性が高まるのも間違いない世の中のかぎり、Google2段階認証プロセスは有り難いわけだから是非とも活用するべきではないかと気付き出した。

実際に登録しながらはっきり分かったのはアカウントの遠隔操作に強い。誰かにパスワードを悪用されても大丈夫なのがGoogle2段階認証プロセスだった。つまりパスワードだけではアカウントにログインできないからインターネットでのセキュリティーは万全とも過言ではないわけだ。

テキスト メッセージ、音声通話、モバイルアプリを介してお使いの携帯電話にコードが送信されます。セキュリティ キーをお持ちの場合は、パソコンの USB ポートにセキュリティ キーを挿入することもできます。

Google 2 段階認証プロセス via Google

パスワードに加えて確認コードも必要とされる。メインのデバイスへSMS等で発行されてアカウントにログインする際に入力しなくてはならないんだ。毎回、確認コードは変わるから固定したパスワードのように前以て盗まれる可能性は著しく低い。

両方とも一辺にまさか解読されないとはかぎらないし、誰かに侵入される恐れが全くないわけではないにせよ、アカウントのセキュリティーが非常に高いのは間違いない。パスワードだけでもそもそも大丈夫なはずだったならば鬼に金棒ではないか。面倒臭いのも当然ながら敢えて取り入れる重要性というと頷かれるし、不安の忍び寄る影が薄まるばかりの日々こそ気持ち良い。

Google2段階認証プロセスは案外と便利だ


確認コードがメインのデバイスへSMS等で送られるけれどもサイトやアプリでアカウントにログインするとログアウトしなければ必要とされないので、パスワードも入力しないまま、手間は全くかからずに済んでしまうから何もしてないのと同じだろう。

デバイス毎に確認コードが発行されてそのようにデバイス毎にアカウントへのログインが許可されている。

だからデバイスが盗まれると駄目だし、アカウントのセキュリティーは元の木阿弥だからスマホ、タブレット、パソコンは又別に守らなくてはならないというのは注意しておくべきだ。

確認コードの確認手順について


  • 音声またはテキストメッセージ
  • バックアップコード
  • Googleからのメッセージ
  • 認証システムアプリ
  • バックアップ用の電話
  • セキュリティキー

幾つかの方法があってどれでも構わない。設定画面では「音声またはテキストメッセージ」がデフォルトで、「バックアップコード」が予備手順とされている。他の四つが予備手順の二番目だけれども自分で変更すればデフォルトと入れ替えられる。

音声またはテキストメッセージ


メインのデバイスの電話番号を対象として確認コードが得られる。音声を選択するならば固定電話を登録しても大丈夫みたいだ。

バックアップコード


確認コードとして一回だけ使える番号が幾つか纏まって配布されるので、デバイスにダウンロードしたり、プリンターに印刷したり、どこかに保管しておくと良い。

Googleからのメッセージ


メインのデバイスに確認コードの代わりに「はい」のボタンが表示される。最も簡単だ。しかしデバイスのセキュリティーを使わないと設定できないようだ。アカウントとデバイスが連動するならばセキュリティーも最も高いだろう。

認証システムアプリ


Googleの認証システムアプリGoogle PlayApp Store)から確認コードが貰える。デバイスがオフラインでも発行される。Google 認証システムのインストールによれば複数端末でも使用できる。認証システムのアプリをインストールした全てのデバイスで、一つのQRコードか、シークレットキーによって同時に設定するようになっている。するとメインのデバイスでなくてもGoogle2段階認証プロセスの確認コードが貰えるわけだ。

バックアップ用の電話


メインのデバイスとは別個に電話番号を登録したデバイスから音声またはテキストメッセージと同じように確認コードが得られる。

セキュリティキー


パソコン向けだけれどもUSBメモリーのような物理デバイスによって確認コードの代わりにアカウントにログインできる。2 段階認証プロセスに セキュリティ キーを使用するによればセキュリティキーの他に最新のChromeブラウザがインストールされてないと動作しないらしい。

Google アカウントにログインするたびに 2 段階認証プロセスの確認コードを入力したりセキュリティ キーを使用するのが面倒な場合は、パソコンやモバイル端末を信頼できるものとして指定できます。


サイトのアカウントの場合、Google2段階認証プロセスでログインしたデバイスはログアウトしなければそのままで構わないのは信頼できるデバイスに指定するかぎりだ。確認コードの入力画面で「このパソコンでは次回から表示しない」のチェックを外さずに送信する。後から解除することもできてGoogle2段階認証プロセスの設定画面内に取り消しのボタンが付いている。

アプリのアカウントの場合、Google2段階認証プロセスで自動的に信頼できるデバイスに指定されるに等しい。アカウントへのログインで確認コードはログアウトしなければ繰り返して求められない。

僕は「音声またはテキストメッセージ」のテキストメッセージを使っていて予備手段のバックアップコードをブラウザからダウンロードしてスマホ/タブレットに保管している。サイトでもアプリでも信頼できるデバイスとして確認コードを多用しないかぎり、テキストメッセージはシンプルで最も使い易いと選んでいる。料金が発生するけれども僅かでしかないから困らないし、シンプルで最も使い易いと選んでいる。

Google2段階認証プロセスを使う際に要注意なのは確認手順を完全に失わないことだ


予備手段のバックアップコードを厳重に管理しておくべきだけど、万一、アカウントにログインできなければ確認コードとは別の質問に答えてGoogleからの対応を待つしかなくなる。すると本人かどうかを証明できなくて復活できないという危険性も高まってしまう。

通常のアカウントのログインとセキュリティでは設定が変えられないし、バックアップコードも取れないので、用心に用心を重ねるならば複数のデバイスが入れるようになっていると良いだろう。

2017年4月22日

ロバートの秋山は最終的にはそこにいるだけでお笑いとして面白いわけだったんだ

ロバート秋山というと小煩い母親のコントを良く覚えていた。面白いと思ったけれども又新しく気付いた。のんある気分のテレビCMでドラマ仕立ての真面目な役作りにくすくす笑ってしまって如何にも珍しかった。個性的だと考えると人々の隙を付くように笑わせるスタイルがロバートの秋山のお笑いとしての持ち味だったんだ。


ロバートの秋山が広末涼子の専属マネージャーという設定なんだ。広末涼子がのんある気分のイメージ・キャラクターで、ロバートの秋山が専属マネージャーとしてちゃんとできるかどうかを取り仕切っている。

小煩い母親と結局は同じだけど、改めて注目される人間味としては相手と自分の立場が逆転している。母と子の関係ならば子が成長して母を追い越した後ではないか。手掛けるタレントが成人ならばマネージャーが口出しするのは根本的には控えなくてはならないみたいだ。

ロバートの秋山に驚くのは気持ちがデフォルメされてない。言動が普通なのに面白いのが不思議だ。滑稽だから気付けば直ぐに笑える現実があるとすると些細な日常を掴んでいるせいだ。くすくすが凄い。日々の狙いが分かると良いんだ。広末涼子の専属マネージャーでは真面目が生きている。たとえ口出ししても打つかる以前にそうした思いから理解できるようにロバートの秋山は仕向けているわけだ。

素顔のままの笑いと呼ぶしかなくて日常生活に見付け出して実行するのは計算高い。

悲しみを紛らせるために現時点では不可能な明るさから物事を捉えている。たとえ虚構でも不可能な明るさを引き受けているうちに気持ちが晴れて来るという人生の朗らかさがロバートの秋山は好きだし、お笑いにおいて追求しているならば人柄は厚いだろう。世の中で救いに期待する気持ちが著しく大きい。存在そのものが皆に励ましを自然に分け与えるように考えられるとすると性格も根っからの楽天家ではないか。

ロバートの秋山は最終的にはそこにいるだけでお笑いとして面白いわけだったんだ。

生活上、小煩いまでに口出しされるならば鬱陶しいにせよ、気持ちに罪はないと教えてくれる。愛するかぎりの思いに触れるとよもや悪も締め出されるようだ。人間関係で大事なのは真っ先に理解力ではないか。

意見が打つかるほどに息苦しいのは他でもなく、自分が相手の人間味を計り兼ねている帰結だろう。またはたとえ通った意見でも皮相的な仕方では今一つ腑に落ちて来なくて悩ましいかも知れないはずなので、人々の繋がりは理解力を抜きに求めるとリアリティーが薄いといわざるを得ない。

ロバートの秋山はのんある気分のテレビCMで人間関係の妙を突きながら気持ちの蟠りを打ち払っている。真面目なばかりの一挙一動に笑いを誘われながら面白さはくすくすでも理解力のせいだと確かに思い至らされた。全てが普通だからこそ余計に腹を探らずに済んでしまうというスタイルは個性的だけれども表現上は前向きな世界を伝えているんだ。厚い人柄が出ているみたいで、やはり珍しくて印象は薄いながら勇ましくて気に入った。

2017年4月21日

α5100とTouit 2.8/50Mで晩春の花々の写真撮影

久し振りに写真の撮り歩きに公園へ出かけた。カメラとレンズはα5100Touit 2.8/50Mだ。レンズは手振れ補正が付いてなくて辛いし、大分、写真を撮ったからもうそろそろというか、偶には交換しても良さそうだけれども止められない。何しろ、仕上がりの透明感が清々しくて気に入っている。

昨年、鈴蘭を見付けた穴場を目指した。ピントが合わなくて非常に苦しんだし、枯れかけてもいたので、もう一度、早めに行ってそして頑張ってみたかった。大好きな花なので、悔いは少しも残したくない。

しかし鈴蘭は一つも咲いてなかった。周りに生えていたはずの雑草もなくなっていて市役所で刈り取られたかも知れないので、本当にショックを受けずにはいなかった。地面を詳しく調べてみると細長い茎が幾つも伸びていたから五月に入れば大丈夫かも知れないとも感じた。

今春は寒い日が続いていたし、咲くのが遅れているだけならば鈴蘭を写真に収めるチャンスはありそうだ。暫くしたら又来てみたい。

スノーフレーク

面白いのは鈴蘭と良く似ている花で、スノーフレークこそ真っ盛りを迎えていた。

写真に収めるのは構図が難しい。向きが上手く行かないし、数多く咲いているからバランスが取れない感じがする。鈴蘭と同じで、何枚も何枚も撮ってやっと一枚だけ気に入った写真が手に入るみたいな花だろう。

天気は快晴で、シャッタースピードは四桁の1/1000sを楽に越えるから手振れの心配はなかった。本当に有り難いし、室内よりもまさか写真撮影の喜びが格段に増して来る。α5100Touit 2.8/50Mも本領を発揮するよ。

真っ白な水仙

晩春だけれども水仙もまだまだ残っていた。街中で良く見かけるので、しょっちゅう写真を撮っているけれども真っ白の水仙は初めてだった。まるでケーキのクリームのような風合いが可愛らしい。明るさが十分だし、白一色でカメラもレンズも描き込みが厳しいはずだったけれども光の陰影に満足している。

赤くて花柄の大きなチューリップ

地元の幼稚園で植えたみたいで、チューリップも良く咲いていた。花柄の大きな品種だと思う。丸々と膨らんでいるからコップにしてジュースを注いで飲みたくなるし、見ながら児童期を振り返った。人生に夢が満ち溢れていた記憶が幸いだった。年を取っても希望を絶やすべきではない。

チューリップの手前の一輪にピントが合っているけれども花弁の冷たさが出せたのはTouit 2.8/50Mならではの個性ではないか。日差しが花弁を透かすところが最も表現したかった。艶やかにチューリップの質感を損わずに描き込めたからとても嬉しい。

α5100のカメラとしての元気の良さにも気付かされる。躍動感がスムーズに出ればイメージが弾ける。しかし静けさも広がっているから写真に透明感を与えるTouit 2.8/50Mとの組み合わせは詩的なんだ。止められないのはそのせいかも知れない。清々しさも生きている。

遅咲きの枝垂桜

桜は終わったけれども枝垂桜が正に満開の見頃だった。きっと遅咲きの品種ではないか。春の花見を枝垂桜で締め括るという植え方をしているとすると素敵な公園だと感じてしまう。平日の昼間だったけれども花見客が一組だけいた。花が散ると共に花見客も減って行くのは風流としかいいようがない。写真を撮りながら心に染みた。

晩春や居残る人が賑やかさ

俳句も久々だ。季節感に触れるとやはり生まれ易い。日本人の心だろう、何にも況して。わびさびの境地に落ち着きながら自分自身を取り戻す。すれば又新しい世界が開かれて来る。忙しいだけでは明日が遠ざかって仕様がないはずだし、まさか夜も良く眠れず、最近は疲れが溜まる一方だったよ。

三葉躑躅

三葉躑躅は淡い紫で小さめの花がとても艶やかだ。

紫は神秘的な印象を与える色だと思うけれども淡いから控えめで、花も小さめだから奥床しい気持ちがして三葉躑躅は見ていて引き付けられた。

α5100は皐月や躑躅を撮影すると躍動感が合うといつも感じる。花があちこち細かく向きながら一斉に咲き乱れるからイメージにぴったりなんだ。そしてTouit 2.8/50Mだと清々しさで心地良い風が流れるような雰囲気に持って行ける。

何ヶ月も室内での写真撮影ばかりだったけれども光の強さが晴れた屋外では、全然、違うと改めて実感した。

写真撮影は生命線の光を大切にしながらやって行けば良いはずだけど、上達するためにはカメラとレンズに少しでも多く取り込むように注意深く考えるべきだし、イメージ通りに近付けられるかどうかを妥協せずに追求するという気持ちが創作活動として面白いと共に重要なんだ。