2017年2月22日

ショパンの幻想即興曲が生前に発表されなかった理由

ショパンの作曲した音楽で最も印象深い作品の一つが幻想即興曲即興曲第四番)だと思う。


僕は大好きなんだけれども他でも聴かれることがある。アニメのタッチで上杉克也が浅草南への思いを抱えながら先ずは最強の恋敵と見做される上杉達也に知らせた後で部屋で一人でかけていた。または荒川静香が金メダルを取ったトリノオリンピックの女子フィギュアスケートのショートプログラムで使っていた(管弦楽版)ものの直前までフリープログラムで気に入っていたから落ち着くみたいな形になっていた。どちらも人生を賭けた貴重な場面だったと思うし、心の支えにも近いという音楽と共に気に入ってしまわずにはいられない物語で、やはり印象深かった。

ショパンの幻想即興曲はロマンチックでドラマチックで人間の情熱が明らかに味わわれるし、芸術的にもリアリティーが大きくて心酔させられるほどの美しさを覚えるかぎりは素晴らしいと称えざるを得ない。

大好きだから個人的には間違いないにせよ、幻想即興曲はショパンの代名詞とも過言ではない代表作だし、生前も人気の作曲家だったから人々にさぞかし知られていたのではないか、歴史的に考えれば興味や関心は現代と同じだったかどうかというところに振り向けられるはずだった。

驚いたのは、全然、そうでなかった。まるで寝違えたような首の激しい痛みというと詩的だけれども予定通りに振り返ってはならない気持ちが本当に参ってしまうばかりだった。

ショパンは幻想即興曲を十分に完成していたにも拘わらず、生前は手持ちの楽譜を出版しないで、自作曲としても人々には発表しないでいたとされる。

だから遺作の扱いになって現代では聴かれている。未完の絶筆とか習作なんて状態ではないからちょっと珍しいとはいえ、矢継ぎ早に驚かされるのは調べてみるとショパンは本当に嫌だったみたいなんだ、幻想即興曲を人前にあわらに示すのが。世の中に公開するとした気持ちは全く考えられなかったし、差し止めを求めるかのように遺言でも誰かに知られる前に焼き払って欲しいと訴えるまでに自分一人で抱え込んでいたらしい。

ショパンの数々の遺品の中から幻想即興曲の楽譜が出て来て題名も元々は幻想と付いてなくて只単に即興曲と呼ばれていたみたいだけど、知ってか、知らずか、故人の意に反して人々の手に渡るや宜しく覚え込んだように全世界に広まって行った。

何が恥ずかしくて駄目だったのかと咄嗟に勘繰られる幻想即興曲の公開された経緯だけれども僕だけではなくて皆が感動と興奮の些かも冷めやらない名曲中の名曲が作曲した本人のショパンによって出し惜しみを食らっていた。

音楽で専門的にはベートーベンピアノソナタ第十四番/月光の第三楽章のカデンツァなどの他人の作品との類似点から取り沙汰されるようだ。著作権を侵害した嫌疑がかけられれば良くないし、芸術家としても情けないので、ショパンが誠実なかぎりは幻想即興曲を自作曲として世の中に送り出すとは考えられない。個人的にはベートーベンの月光ならば聴いていて何一つ結び付かないから裁判にかけても勝ってしまうようなレベルの類似点かも知れないし、偶々という気がしないでもないけど、物作りへの気概まで踏まえるとそれでも納得できなかったショパンというイメージはとても格好良いだろう。他人の作品を真剣に学ぶために幻想即興曲は実験的に手がけただけだったので、飽くまでも自分のための音楽だから皆に教える必要はなかったと解釈される。

するとただし疑問なのは幻想即興曲がショパンの勉強ならば結果を暗記して用済みとも考えられる。死ぬまで抱えているのは可笑しいし、敢えて遺言で断るくらいならばさっさと自分で捨ててしまうべきではなかったか。楽譜なんて頭の中にあれば大丈夫ではないほどのショパンでは作曲家として感性が余りに貧し過ぎるようだし、ひょっとすると譜面に起こさなくてもできるまでにスマートだったから物作りへの気概はちょっと信憑性が薄そうだ。

他人の作品との類似点に注目するかぎり、ショパンが幻想即興曲を生前に発表しなかった理由はもはや著作権を侵害した嫌疑を免れるためで、何よりも誠実な人柄のゆえに芸術家として情けなくも公に醜態を晒したくはなかったと捉えるのが余程と適切ではないか。

サンジャムのボーダール・ホテル
Hôtel Baudard de Saint-James by Moonik (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

とはいえ、僕が真っ先に注目したのは全く別の方面だという詩学的な観点だった。自作詩の一つを考えている最中にこれはショパンの幻想即興曲のイメージに何となく迫るように翻っては呼び寄せてさえもいるぞと気付き出したせいだった。人々には教え難い真実が察知されてショパンの幻想即興曲を初めて調べてみて今此処ではかくかくしかじかの事情に触れながらピアノの詩人とも称されるショパンが完全に避けていたと分かって一人で納得していたりしたんだ。

ホームページに詩集を幾つも増やしたにも拘わらず、それはまだ公開されてなくてショパンの幻想即興曲が人々に知られなかった生前の経緯と同じように感じてしまって不思議に可笑しいけれども相応しい詩集がなくてホームページに載せるのが遅れているに過ぎないから個人的に控えているわけではなかった。

ブログで記事のテーマに必要だから今直ぐに単品で出すのも気が向かないので――または謎めきを煽りながら文筆するのも芸術的に面白いのではないか――題名は自作詩の一つと伏せながら取り上げるしかないけれども詩人として何が危ないかというと悪を助長する言葉遣いに誤解されるかも知れなかった、人々からすると。

僕は作詩しながらイメージが悪に焦点を結ばないようにずらしてずらして仕上げたし、事物の本質において永遠に正しいためだから認識として危ないと不充分だったせいだ、人生こそ悲しく受け取れば間違っているはずのスタイルの詩が完成したからいつでも公開できる体勢は整っている。

ところがショパンは露骨に示したから生前に公開しなかったとすると幻想即興曲には人々を悪に陥れはしないものの本物の悲しみを人生的に肯定するような自己表現を取ったのではないかと予想されるんだ。

詩人ならばボードレールロートレアモンのように悪を考えるというか、諸に引き受けてしまうという状態に当て嵌まるはずなので、それはそれで可哀想だから決して無駄な自己表現ではなくてむしろ物凄く頑張って生き抜いて偉大だと評価するし、前例がなければ僕自身が本物の詩人を名乗るためには是非とも追求せざるを得なかった経験の手間を省いてくれたという点では感謝に堪えないわけだれどもショパンが生前に幻想即興曲を発表しなかった気持ちは詩学的に半分だけ足を踏み入れなかったとはかぎらないようだし、ただし逆らったからには本性は善にあったはずに違いなかった。

実際に聴きながらどうして不味いのか、詩学的にいって幻想即興曲が人々に教え難いほどに危ないのはなぜなのかはショパンには気付かれてなかったと思うし、さもなければ僕がやったのと同じで、イメージをずらせば良いだけの造作なさだから自己表現としてあり得るのは真実を掴んで作品に示さずにはいられなかった率直な人柄が全てという一言に尽きるだろう。

ショパンは非常に真面目な作曲家だったと僕は感心してしまいもする。

音楽と詩の関係を知覚するのは大変だし、というのは音符は言葉よりも記号に近いからそれ自体に精神的な強度が低くて一対一で対応し切らないためだ、例えばドレミファソラシのドの音は楽曲によって山だったり、川だったりするように言葉として捉えるには限界がある。言語としては論理学や哲学に近くて詩は言葉を重視するならば最も遠いところに考えられるからそこに音楽を持って行くのも困難を極めるはずだ。

普通に詩的な音楽を聴くというとイメージを介して空や海が見えるような印象についてなので――ドビュッシー交響詩のは本当に上手い――必ずしも音楽が丸ごと詩になっているせいではないわけだった。

フレデリック・ショパン博物館
Chopin Museum in Warsaw by Adrian Grycuk (Own work) [CC BY-SA 3.0 pl], via Wikimedia Commons

ショパンはしかし例外的な表現力を持った作曲家で、ピアノの詩人と称されるのも詩と音楽を踏まえながら言葉と音符の一対一の対応が味わわれるから見事だった。

なぜかは音階を個別に保っていて楽想に対して音符を彼自身の展開から外して配置しないせいだと思う。自分の言葉で喋り続ける人みたいに全ての音符がショパンの音楽的な構成に常に収まっているためではないか。すると音符は詩の言葉と遜色ないし、イメージもシの音が都とかなんて一つだけあっさり感じるよりも含蓄深くてもっとずっと多岐に及んでしまうかも知れない。

作曲家でショパンの卓越した能力も音階から音符を掴んでいて(受け取った楽想からどんな音色かを判断するよりも早い)感性がすば抜けて鋭い。一つの音符が別のイメージ、他の味わいに繋がらないように実作においてきめ細かく調節しないと詩そのものの音楽は無理なはずだからそれができてしまうならば天才の天才(カリスマ)とも過言ではないと仰天させられる。

僕が幻想即興曲が危ないと指摘するのは詩学的な観点だし、表現上、どこがどうと明かすのも基本的に不可能――音符から生まれる音楽のそれ自体の内容は音符の状態と知覚される次元が合わないかぎり――だから詩情、またはショパンの特異な楽想として認められる部分のみ考えるならば低音が人々に戦慄を与え兼ねない響きを恐ろしく持っているせいではないか。

地上の悲しみの一切を孕んでいるような全世界の災いを被った呻きそのものみたいなイメージが湧くと思うし、もしも真面目に肯定するとなるとそのままで正しいと悪が求められても仕方がないくらい人間的には聴くのは厳しいから善こそ求めての創作活動が大事だったかぎり、ショパンが幻想即興曲を生前に発表しなかった理由としては如何にも尤もらしく受け留められてしまうんだ。

世の中にはデモーニッシュな音楽は幾らでもあるし――おそよパガニーニが代表格ではないか――イメージもさらに過激だったりするとすると幻想即興曲の低音が目立って忌まわしいわけでは決してないだろう。

ショパンが人知れず、怯えたならばやはり詩そのものの音楽を率直な人柄から作曲していたためで、それぞれの音符と言葉の一対一の対応という方法への理論的な向きがなければ、毛頭、気付かなかったかも知れないにせよ、人々に楽想だけではなくて気持ちも速やかに伝わるとした社会的な趣きの中で、厳しい低音の忌まわしさにちょっとでも影響力を多大に認め出してはよもや開けてはならないパンドラの箱もさながらに幻想即興曲は封印しなければならないと焦っていたと僕は考えたい。

最後の最後の疑問としてはなぜ消し去らなかったかが気かがりなって来るけど、人生で見出だされた、そして音楽から得られたかけがえなのない真実として自分一人ではなくて皆にも知って貰いたかったのではないか、つまり。

幻想即興曲が戦慄と切り放せないとしたら音楽でも演奏される効果的な度合いを上回って本源的な恐ろしさに他ならなかったはずだ。

詩人でボードレールやロートレアモンが悪を歌うのは世界の本源的な恐ろしさを信じていて誰も免れないためだと思うけど、ある意味では《解脱》にも等しい、悲しみながら生きて良いと悟っているわけなので――だから殺し合いも精神的に呑み込めば人格は荒廃するべきだし、二人ともそうだったはずだから本当に凄いと尊敬したくなる、自己表現に真実しかなかったと、そして見詰められた悲しみには嘘偽りの欠片もなかったと平和的には愛さずにはいられない気持ちに誘われてならない――ショパンは音楽に知ってしまって堪り兼ねつつも神に誓って道標を残すようにするべきと考えなかったとはかぎらない。

なので幻想即興曲を捨てるかどうかは作曲家として真実を諦めるかどうかという難儀な選択だったし、消し去るかどうかも自分一人で楽譜を隠し通しても他の誰かが作曲しながら考え付いて皆に教えれば結局は明かしたのと同じだという複雑な心境を伴っているんだ。

ショパンは死ぬ間際まで音楽と切り放せない本源的な悲しみを強いられながら自分らしく希望を夢見ても大々的に披露するまでには踏み切れなかったのではないか。

想像すると切ない。喜びのための音楽が実際には不完全な善だったのではないか。幻想即興曲にかぎっては人生が音を発てて崩れ落ちるような嘆かわしさが禁じられなかった。内面が引き裂かれても驚かないけれども作曲家としては手放されなかったという信念だけがはっきり認められてしまう。

素晴らしいはずだし、ショパンに相応しい、様々な作品と考え合わせてみても。

2017年2月21日

サティの三つのジムノペディで良い演奏が見付かった


タニア・スタヴレヴァというブルガリアのピアニストの演奏で、サティ三つのジムノペディを聴いて良いのではないかと思った。

咄嗟には難しくていつも直ぐには納得できないばかりのサティの三つのジムノペディなんだけれども何よりもテンポが合うか合わないかなんだ。単純といえば単純ながら音楽の基本的なところなので、もう出だしで全てが決まってしまうし、演奏者の表現したい気持ちも瞬く間に分かってしまうのではないかと感じなくはない。サティの作曲家としての真骨頂というか、楽想が完璧に再現されるほどに音楽の味わいが美しく変わるように聴きたくなる。

それこそテンポ一つで全く別の世界に込み入りそうな三つのジムノペディなので、考えると空恐ろしくもある芸術性をサティには犇々と認めずにもいられないわけだった。

個人的には正反対だろう、芸術家として。僕は誰が読んでも同じでしかない詩を本質的に目指しているけれどもサティはサティだけが聴いて良い音楽を特質的に作曲したかったのではないか。

すると無理なんだ、サティ以外に三つのジムノペディを完璧に再現する、楽譜をとことん追求してもできないし、むしろやったら間違っているに過ぎないくらい真剣そのものだからもはや正確無比に演奏するとかなんて芸当は――。

サティのスペシャリストが演奏者で、主要な作品群から分けてもピアニストでいるとすれば意味合いが反り捲っていて思いから近付きながらパフォーマンスはぐちゃぐちゃでもサティは本当に一人しかいないと教えてくれるかどうかが最低限の要件になるだろう。

三つのジムノペディは出だしから安心して聴けるかどうか、作曲家のサティという存在に触れられるかどうかに興味も関心も尽きる。

タニア・スタヴレヴァのテンポはちょっと遅くていきなり頷くのはやはり厳しい。只、サティの指定では「Lent et douloureux」(レント・エ・ドゥルルー/ゆっくりと苦しく)となっているようなので、一番目のジムノペディはちょっと遅くて合っているといえなくはないだろう。厳しいし、急いで欲しいけれども却ってサティの思いに浸りながら他の誰にも真似できない真意に内面から目覚めるのは有り難いし、良い演奏だとも感じ出した。

好んで聴いてみるとちょっとだけ遅くて普通ならば眠たくなるような印象が強いままに進んで行くのが冴えた音色によって支えられているのがユニークだ。

サティでなければ本当に子守唄で終わってしまうようなスタイルの演奏だとすれば独創的な芸術こそ堪能させられる。思いから近付くという点では浸りながら楽想に気付かせるタニア・スタヴレヴァは只者ではなかった、ピアニストとして。

初めての世界だろう、三つのジムノペディにとっても僕が知るかぎり。まるで鍾乳洞の中で天井から冷え凍えた水滴が見て回るほどにあちこち少しずつ落ちて来るみたいな情感が味わわれる。振り返ると珍しくなかった、他の演奏者でも。

ただし雰囲気ではなくて詩としっかり結び付いた形で音符を紡ぎ出すとなると稀有だし、冴えた音色の賜物だから聴き惚れながら素晴らしく素敵だと称えるのもまさか吝かではない。

黄色い百合の花言葉は陽気と偽りと浮き立つ思いだ

黄色い百合

黄色い百合の花言葉を調べてみたら花こそ見たままにやはり美しくも謎めいて神秘的だったと気付いた。

陽気と偽りが大きい。もしも偽りが陽気だったら悲しいというか、花言葉なので、思い悩むほどの文学性が問われているはずでもなければ壮重に受け留めるべきではないだろう。

今此処でショパンの幻想即興曲がなぜ生前に発表されなかったか、どこに欠陥があったのかを追求するよりも聴きながら別に構わないと惚れ込むようにむしろ真実だけが表現されているといいたい。

花言葉そのものが詩的だし、文学性が求められるとしても先ずは軽妙に受け留めながら真実との出会いこそ見詰めると良いと思う。

面白いけれども黄色い百合の花言葉には陽気と偽りの他に浮き立つ思いもある。だから本当に驚く。軽妙に捉えてこそ正しいと実際にも示されていたに等しいわけなので、誰が作ったのかは不明だし、人々のいい伝えで相応しいイメージがまるで「自然淘汰」(ダーウィン)と何年もかけて残されて来たのかも知れないけど、真実として明かされる世界が特別に感じられて考えるにも取り分け注意されずにいなくなってしまう。

哲学的に黄色い百合の浮き立つ思いは生成変化と呼んで差し支えなければ陽気と偽りも一つの存在論だろう。軽妙に捉えるためには偽りという認識の内容の形式が陽気の意味合いに実効的に影響しないように考えなくてはならない。つまりは陽気な黄色い百合の性質に含意される偽りとは何かを知るべきなので、全てが字句通りに裏返しではないとすると謙遜が大きいのではないか。黄色い百合の花言葉の偽りは謙遜の在り方として陽気と結び付けながら浮き立つ思いで確認すると不思議そのものだけど、実生活では物事を少し引いて吟味するような場合に多く感じられる。

いい換えると客観性の冷たさが黄色い百合の偽りに込められた気持ちなんだ。悲しいとすれば孤独のかぎりにせよ、それ自体では必ずしも真実には当て嵌まらなくて写真に例えれば広角レンズのカメラで撮影されたために普段よりも幅広く世界が分かるような楽しさがある。客観性が優れて知性的な有とすると他には何も要らない存在だから冷たくも涙は似合わないほどの偽りが正しいとも理解されるわけだ。

僕は違和感を受け取った、最初に。陽気というとオレンジだから黄色い百合には濃過ぎていた。太陽と親和性があって陽気は黄色よりも赤いのではないか。

黄色い百合の花言葉が陽気なのは可笑しいと謎めいていたけど、しかし謙遜としての偽りを踏まえながら浮き立つ思いも加味して感じ返してみると楽しさが抜き差しならなくて概念化すれば知性的な有における客観性だから批判精神に基づくけれども黄色い百合にはぴったりだと納得させられる。

陽気なのは楽しさが強いとすると太陽と考え合わせても眠るのが惜しくて明け方に目にした薄明かりだから普段のオレンジよりも黄色に余程と近いはずだ。

花言葉はどれも詩的だといつも思ったけれども本当に良くできていると黄色い百合を巡っては考えながらはっきり気付いてしまった。

気持ちが歌われて詩的なんだ。感性ならぱオレンジのはずの陽気が黄色い百合の花言葉というのは気持ちが第一条件としかいえない。花言葉は気持ちを大切にしている。

花に重なるイメージを知らなければ思い付かない花言葉だとすると人々に昔から伝承されるのは知識としての側面も否定できないし、聞いてただ共感するだけではなくて想像するような趣きを与えられるのも自然だと頷かれる。

2017年2月20日

ベーコンのアトリエはゴミ屋敷なのに格好良い

フランシス・ベーコンのアトリエ
Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ireland by antomoro (Own work) [FAL], via Wikimedia Commons

本当に困るというか、ベーコンの絵は怪奇的で余り長く見ていたいとは思わないけれどもアトリエには普通にアートを感じる。片付けて欲しがりながら思いはゴミ屋敷でしかない。ところが散乱している画材に少しでも手を伸ばそうとすると心の中で動かしてはならないし、一瞬に全てが成り立った《世界の生命力》を味わわされるのも確かなんだ。またはリアリティーの引き潮によって写真だけれども目の前のベーコンのアトリエに自分自身が急速に巻き込まれてしまう。諺にある通り、住めば都とゴミ屋敷かどうかはもはや苦にならないのが不思議だ。実際に生活するのほ考えても厳しいかも知れないにせよ、アートとして捉え返してみるとベーコンが細部の先の先まで仕組んだようにも受け取られてずっと見ていたいと率直に感じる。

フランシス・ベーコンのアトリエ
Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ireland by antomoro (Own work) [FAL], via Wikimedia Commons

ベーコンのアトリエは格好良い、アートながら作り上げたのは彼にとっては偶々で、普段の生活に合わせて画材が勝手気儘に配置されたはずだとありがちに考える。すると神が降臨したように認められもする。ゴミ屋敷と根本的に異なるのはベーコンのアトリエを埋め尽くした全てが絵描きに必要だからで、それぞれが似ているのは乱雑さというスタイルに過ぎない。只単に雰囲気が重なっているから感情移入が高まるほどに参って息詰まりながら困らざるを得なくなるけど、とにかくイメージでは出会ってしまっている神が本当に凄いと感心させられるんだ。アトリエがアートとしてなぜ作り上げられたかを当のベーコンよりも自然の美しさの一つに数え上げている気持ちに呼応しながら目に浮かんで来るわけだった。知るや否や避けられない。

フランシス・ベーコンのアトリエ
Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ireland by antomoro (Own work) [FAL], via Wikimedia Commons

どんなに瞬きを繰り返しても神がベーコンのアトリエにはいるとなると目を閉じても変わらないし、開ければいうまでもないから見るかどうかは超越された地点へ存在が移行してしまう。

生きる喜びならば羽根の生えた心が遠くの空に受け取られて知覚を研ぎ澄ますと天使だったと分かる。気付くのが遅かったために手前の存在と結び付けると神の周りに天使がふわふわ飛んでいて望めば幾つも捻り出されるように現れるし、大小様々な仕方で和まされるばかりだ。どこまでも広がって行く生きる喜びに包まれては平和への祈りも止まりはしなかった。

フランシス・ベーコンのアトリエ
Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ireland by antomoro (Own work) [FAL], via Wikimedia Commons

方法上は実生活を生成的に認識しているのと大差がなかったわけなので、ベーコンのアトリエは人生の縮図といっても良いだろう。

すると驚くのは必要性しかなかった。どれもこれも貴重で、捨て去るには余りにも惜しい。愛が芽生える。

ベーコンのアトリエはアートだし、ゴミ屋敷にも思われずにいなかったにせよ、神と出会えるくらい自然の美しさに速やかに満ち溢れているかぎり、最終的には実生活と組み合わされながら世界そのものが尊ばれるので、素晴らしい気持ちとしては実現したというか、強いて片付けたりもせずに過ごしていたベーコンに由来するように考えられるだろう。

だからある、ベーコンには素晴らしい気持ちが。画材が散乱したアトリエがアートだと感じるのも普通には本当に正しかったのではないか。

The feeling of desperation and unhappiness are more useful to an artist than the feeling of contentment, because desperation and unhappiness stretch your whole sensibility.


絶望や不幸の気持ちは満足の気持ちよりも芸術家にとってとても役立ちます、なぜなら感受性の全ては絶望や不幸に引き伸ばされるからです。

個々のバケツや箱、さらに入っている絵の具や筆、加えて内と外の関係性を踏まえながら知覚するとベーコンのアトリエの何もかもが重く感じられる。物語を歴史的に持ってるのではないか。はたまた詩が恍惚的に保たれているのではないかと勘繰るほどに神が又近付いて来るようだけれども見守られながら明らかに安らいで視線を漂わせたくなる。

学ぶのはアートは飛んでもなく簡単だ。ベーコンにとってアトリエはアートではないし、独特には難儀にせよ、普通に感じるアートは素晴らしい気持ちがあれば良いだけに過ぎなかった。どう表現するかと頭を悩ませずに済むわけだ。常々、素晴らしい気持ちがあるかどうかはアートとは又別だけど、ベーコンのアトリエに感動するのは事実だから知ったかぎりは確実に励みにはなる。作品が最も分かり易いみたいならば可笑しいくらい面白いはずのイメージだから求めるのも無理はなくておよそ愉快だ。

2017年2月19日

ベーコンの絵に浅田彰と井浦新との対談で完全に貴重なアート

日曜美術館のベーコン特集/恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン浅田彰井浦新が対談していたんだ。

ブログで何気なく取り上げた二人が世の中で勝手に結び付いて面白いと思う。それぞれに認識が増して見方も変わったし、さらに又新しい発見があるのではないかとブログに今度を二人を合わせて取り上げたくなってしまった。

2013年に放送されたテレビ番組だから今から四年前になるけれども日本で、当時、三十年振りに開催されていたベーコンの大型の展覧会で題名も正しくそのままのフランシス・ベーコン展を二人が訪れての企画だったらしい。

浅田彰はヘルメスの音楽にベーコンのエッセイが載っていて良く知っているから呼ばれたのかも知れない。調べては日本にベーコンを初めて紹介した作品だったともいわれている。

F・Bの描くプレザンス、それは過不足なく自らと合致して静止するプレザンスではなく、どこまでも過剰なるプレザンス、そのことによって途方もなく膨れ上がり、とてつもない力を孕んで振動しながら時間の中へと流れ出してしまうようなプレザンスなのだ。

浅田彰のF・Bの肖像のための未完のエスキス/ヘルメスの音楽

プレザンスはフランス語で現前だ。哲学の現象学で多用される概念だけれども主観性の相関物としての客体への意識といって良い。だから精神を病むと消滅するし、現前が経験されているかどうかが病院での臨床上の判断基準とも原理的には過言ではない。主観性の限界はサルトル嘔吐(小説)によって示されている。現実の裏側を知覚して初めて現前が超越されるわけだ。例えば他人の腹黒さに触れると普段から気持ち悪いけれどもそれを知覚する対象そのものへ抽象的に向けると世界全体が耐え難いかぎりで精神を病むしかないだろうと分かる。サルトルが無事だったのはただし哲学のお陰だったかも知れない。実存主義の哲学者として元気に暮らしていた。ところが認識が本当に正しいかどうかは又別だったのが面白いというか、サルトルを見れば実存主義が精神衛生に有効なのは間違いないけど、現象学的な方法としての哲学の良さではないかと探り出すといつも持つだけではなくて積極的に保つためにはサルトルと実存主義を真剣に問題視したドゥルーズをやはり知らなくては駄目だし、ドゥルーズ主義者の浅田彰は優秀だから非常に参考になるんだ。


実存主義的な現象学の真の現前を踏まえながら受け取ると「プレザンス」(浅田彰)は飛んでもなく魅力的な言葉で、ちゃんと分かって口に出しているから偉い聡明なのはもちろんのこと、詩人も真っ青なくらい優しい気持ちが込められていると好評せざるを得なくなりもするわけだ、気持ち悪いばかりのベーコンに対しては正しく。

感覚はいわば身体に働きかける様々な力と波動との出会い、「情動的運動競技」、「息の叫び」のようなものである。またこのようにして身体に関連づけられる時、感覚は表象的であることをやめ、それ自身実在的となる。


僕はベーコンはドゥルーズの実在性と結び付けた解釈から初めて良いと思った。本質的にベーコンは本物の画家としての生き方を考えていると考えられるから一つの観念の存在の持続そのものを明かしていてドゥルーズの実在性の見方は呆れるほどにスマートというと浅田彰も霞んでしまってブログに取り上げながら申し訳ないけど、ただしそれが自己表現にアートとして出て来る間際には紛れもなく現前は確認されるべき事象だから認識として不味いわけでは些かもないし、社会的にはドゥルーズのベーコンに引けを取らないくらい頷きながら良く見逃さなかったものだと驚かされてしまう。

日曜美術館のベーコン特集は様々な情報から振り返るしかなくて知らなくて観てなかったわけだけど、しかしながら浅田彰と対談した井浦新への世の中の風当たりは幾分か強かったようだ。

浅田彰を知っていて好きな人にとってはやはり詩人でも遠く及ばないような優れた人間性と切り放せないはずだし、所謂、ふしぎ発言を連発する井浦新が目に余って揶揄されたせいではないか。

僕も見るに忍びない気持ちがしたし、これでは良い年をした大人が勘弁して欲しいと感じさせ兼ねないのではないかと状況的に可能性は低かったにせよ、僅かにも危惧されなくはなかった。

ブログで指摘したけれども井浦新は芸術に憧れを抱いているとすると内心では素直さが大きかった。だからふしぎ発言に萌える女性がいるといわれるのも良く分かるし、母性本能を擽るとか少年の心を持ち続けるなんて格好良さがあるのは間違いないだろう。

井浦新は決して情けない性格ではないと思うし、誰かに揶揄される存在が全てではなかったものの対談した相手が何といっても凄過ぎて逆に煽られながら地が出たし、浅田彰の前ではもはやふしぎ発言も素直さこそ爆発的に伝わって来るようだった。

するとまさかアートだったよ、日曜美術館のベーコン特集というテレビ番組自体が完全に。ベーコンの絵を巡って浅田彰と井浦新が対談しているけれども全てがインパクトに包まれていた。つまりベーコンの絵と浅田彰はいうまでもないところで、先ずは無理に思われた井浦新までが素直さから強度に加わり得たイメージは本当に美しかったし、世界が変わる瞬間を味わわされたに等しくて何もかも夢ではないかと考えるほどに感動を禁じ得なかった。

狙ってできるものではないから貴重だったし、井浦新も浅田彰に宜しく作用したのではないか。浅田彰は井浦新の裏表のない人の良さからベーコンの絵についていつになく熱弁を振るうようだった。怪しめばふしぎ発言に切れてそうな様子だったけれども幾ら何でもそれでは酷いだろうと恐ろしげに僕は見返さずにはいられなかった。なので浅田彰のいつになく熱弁を振るうようなリアリティーを引き出したのは井浦新の素直さを伴った人付き合いの才能が大きかったといいたい。

実際上、ベーコンの絵は絶賛する浅田彰だからそうしたテレビ番組で人々に教えるためにも特別に気持ちが入っただけかも知れないし、判断するのは容易ではなかったものの対談した相手が井浦新でなければどうだったかと考えてみるとやはりないのではないかと僕も浅田彰の人柄を追いけて突き止めるまでは詳しくないから願望を込めるように仄めかすのが精一杯なのが悔しい気持ちと共に結論を下すしかない。

難しい、本当に人間をどう捉えるか。ベーコンの絵について個人的に触れておくならば思想は同じだろう。人間をどう捉えるかの難しさが印象深いわけなので、見ていて日曜美術館のベーコン特集で井浦新の「物凄い余白のある絵」にしても浅田彰の「太陽のように燃える傷」にしても通じ合うような気持ちはする。もっというと人生を問いかけるベーコンの絵は極めて美しいけれども魅せられながらでしか知り得ない(喜びと共に消え失せる)ゆえに透き通ってしまっていてイメージとしても相当に掴み切れないんだ。

詩の言葉に匹敵する世界がベーコンの芸術にはあるし、つまりは一枚の絵も些細な日常の詩だったので、何気なく覚えるには取るに足りない性質まで物事を致命的に凝視しながら描かれているから良いとすると超人的な感性を抜きに理解してはならない――。

2017年2月18日

人に嫌われて辛いのにまだ生きるために

胡瓜の味噌漬けに少しだけ塩を塗したような情感のまるで詩が恋しくなって来る。

自分を出したから良くないにしては思い出と反りが合わない。やはり相手が悪かったのだろうか。考えると思い出には先程と同じで含まれないから食ってかかられる僕は自分の言動の中に原因を求めずにはいられないんだ。

辛くて生きているのもうんざりだというまでもなく分かってくれる存在だけが嫌うなんて気持ちから世間的に遠く引き上げて行くのが見えた。

僕にとっては嫌われるなんて地獄から救い出されるに殆ど近く及ぼしたはずだったに違いない瞬間が訪れていてまだ生きるために必要なんだと認められるばかりだった。

笑え、笑え、笑え。
笑え、笑え、笑え。
笑え、笑え、笑え。
笑え、笑え、笑え。

詩はいつも遅れているのか、時間があれば作曲しておきたい笑えの行進曲よりも。だから詰まらないけれども嫌わない人々と嫌われない僕との感じ取られる順序を入れ換えてしまったんだろう。

誰もいない部屋からかつての地獄を振り返ってみると素晴らしさが空と広がり、詩と音楽は結婚した二人に他ならないくらい結ばれながら心をずっと和ませる性質を帯びていると分かったんだ。

いいたい、何かを辛くないままに。僕のせいで君が食ってかかるならばまだ生きるために必要なのは沈黙だけではないと学ばれたかぎり、残された両親への思いが自殺を踏み止まらせた美談も宜しく、分かってくれるまでの言葉を探すしかないと真っ先に飛び付くように望もう。

今此処で天使の香に気付くのも本当は悲しかったというか、大した悩みではなくても落ち込んだ人生こそ酷い。

止める、愛する人の涙も枯れ果てた砂漠は色彩にかぎるから時計を悔やむことも。死期を悟りながら窶れた気持ちのままでは余りに耐え難い。どこまでも追いかけて来る恐ろしさがあるもので、皆に教えれば教えるほどに漫画でしかないと受け流されるみたいな境地だし、つとに逃れるにかぎるだろう。

一人でいれば何でもない。分かってくれる人々に見付けた言葉をあげれば幸せそのものだ。経験したら覚え捲るべきだし、風船に乗って静かに安らいでいる蜜蜂が想像される。

2017年2月17日

浅田彰のドゥルーズ主義者としての水準

浅田彰構造と力ドゥルーズガタリを大々的に取り上げて他でも言及が多い。そしてさらに自分で自分をドゥルーズ主義者と呼んだりもしていたし、本当にそうなのではないかと思う。

しかし驚くのは余りに一般的過ぎるというか、ドゥルーズの捉え方がオーソドックスな印象を与えるために別にドゥルーズ主義者でなくても可能だし、普通に読むだけで誰でも受け取るような認識しかなさそうなところなんだ。

浅田彰の口から自称してドゥルーズ主義者と出て来るとビックリさせられる、この人は敢えていっているのではないか、例えば教科書で名前を知っているだけでもその考え方や生き方に心酔している結果みたいな響きが避けられなくて。

思想を根底的に考えれば最も正しいかも知れない。どんな人、または作品でも好き嫌いは抜きにして接すれば何かしらの影響は受けていて自分の考え方や生き方に作用するから全て引っ括めて心酔しているとも過言ではないだろう。少なくとも精神的には無意識に原因として吸収されているのではないか。本人が気付くと気付かないとに関わらず、日々の経験の一から十までの観念は人間性を織り上げているに違いないとすると浅田彰の言葉遣いは詩そのものだし、個人の好き嫌いを越えるまで内面性が直視されているかぎりは本当に広大な宇宙としか呼べないくらい凄い。

僕はドゥルーズは出会いが面白いとブログで取り上げたけれども世界観としては無意識を含めて認識されたところが新しかったと思うし、精神的に「欲望」が重要ならば意識された存在(自我)だけが対象ではない、またはそれなしに捉えると哲学としても意味合いがずれるかも知れない。ドゥルーズの出会いが素晴らしいとすれば偶然も入り込む余地があるわけで、広大無辺に何が起こるかも予測不可能な人生を口に出したに等しいから面白いとなるわけだ。

世の中を見渡しているとドゥルーズの誤解され易い部分は無意識の出会いの特色で、浅田彰はきっちり捉えていて非常に頭が良いと感心するけど、僕はブログの記事で説明抜きに出会いが面白いといった通り、どっちでも構わないと思う。特色のない出会い、意識から只単に我欲という経験も受け入れるのがドゥルーズの本性ではないか。それこそ哲学者として懐が誰よりも広くて素晴らしいと称えたくなる。人間的に好き嫌いどころか、思想的に正しいか、誤っているかさえも越えていた。無意識を認めるならば方法上は当然な帰結だし、不確実な立場にも頷くべきなので、ドゥルーズは誤りを喜ぶ哲学を作り上げたから凄い。もはや哲学者ではなくて認識がハチャメチャで学問にしては巫山戯ているとすれば余りに新し過ぎる。何をどう捉えるかのパラダイムそのものが大転換を起こしていて哲学のスタイルが画期的に変わってしまったせいではないか。

注意すると悲しみを笑えるのは生きている以外の何ものでもない。いい換えれば存在論が命にまで届いているために誤りも喜びだから思考が矛盾しているわけでは決してない。ドゥルーズが哲学者ではないとした見方は間違っている。ただしスタイルがそれを受け入れるようになっているから意味はあるし、一定の条件では反対論者も普通に正しい。もしもドゥルーズが哲学者でなけれぱ他の誰かが哲学者でも良いとなるけど、却って懐は狭いといわざるを得ないし、了見も疑われてしまうから認識能力の度合いは圧倒的に高い。スピノザニーチェを学んだとすれば二人と肩を並べるくらい信用できるのではないか。今此処で疑問形を使いたくなるキャラクターこそ唯一の弱点だろう、しかしながら。反対論者も許すようなスタイルでは実生活で知識が役立たないし、主体性のない方法に等しいからドゥルーズは哲学者だとしても思考の核心には課題を残してしまっていた。

浅田彰のドゥルーズはドゥルーズの一般的なイメージにぴったりだと思うし、ある意味、教科書だけど、ドゥルーズの本性から考え返すと無意識の出会いの特色に物凄く拘泥りを持っていて「欲望」で捉えるならば意識された存在(自我)の方面は断じて認めたくないというスタンスが諸々の言動から窺われずにいなかったと気付くんだ。

〈交通〉を全面的に遮断すること、音楽に完全な沈黙を強いることは不可能である。ほんのわずかな隙間さえあればいい。音楽はそれを走り抜けてコスミックな〈交通〉を生むだろう。


すなわち予測不可能な認識から何が起こるかも分からない世界観のドゥルーズが重視されているわけだ。

ドゥルーズの哲学者としての歴史的な位置付けは難しい。スタイルが自分は哲学者でなくても構わないみたいな雰囲気が濃厚だから敢えてどこかに収めたい場合には旧来の認識論や存在論とは又別に方法論という系統を立てなくてはならない。すると古代のまぜこぜの哲学から近代のデカルトの方法哲学を経由して批判的に継承したスピノザの知性優先の線を現代まで引っ張って来たわけだけれども実際上はマルクス(経済学者)とニーチェとフロイト(心理学者)こそ批判的に継承しながら思考する対象を増やして社会学の視野で多角的にやっていたと分かる。哲学者としてはスピノザからニーチェへの流れの中にあってもはや哲学自体を問いかけるまでに至ったところがユニークだった。スピノザは倫理学が、ニーチェは文献学がメインだから哲学的に突っ込んだ思考は必ずしも目立たなかったけれどもドゥルーズは方法論という文脈でしっかり見据えて追求してくれたから第一人者とも過言ではない。文字通り、哲学とは何かも出していたり、本人も十分に自覚していたのではないか。

ドゥルーズを学問的に纏めれば方法論的な哲学者という見方が可能だけれども浅田彰はそうしたドゥルーズ主義者ならば外せない要素を大事にしているのは確かなので――無意識の出会いの特色も言語上で転倒しながら主体性の一環と見做せば(個人的にはあり得ない解釈だと思うし、世界の中枢に個人の思想が抜け落ちたかのように主体性がないところがドゥルーズの哲学者と呼ばれる真実の所以なので、人々に思考するべき対象を超越論的な経験論と良くいわれるけれども一つの独特な仕方で味わいとして与えているためだろう、世間並みに評価しても勘違いにしかならない)旧来の哲学者とは変わらなくてむしろマルクスの経済学やフロイトの心理学の専門用語で全てを置き換えているだけみたいなイメージが出て来ないともかぎらない――一見すると如何にも正統的な解釈を辿っているわけだ。

そもそも僕は哲学に興味がなかったんで、哲学的な正確さは多少は犠牲にしてもいいと思ったんですね。マルクスの言ったように、哲学は世界をさまざまに解釈してきた。観念論か唯物論か、主観主義か客観主義か、解釈はどうにでも変更できる。しかし大切なのは世界を変革することなのだ、と。


僕は驚かされてばかりみたいにせよ、浅田彰が「哲学に興味がなかった」とするとドゥルーズ主義者とは何なのかと驚きながら悩まされてしまった。

まさか解釈としての哲学だけが遠ざけられたにしてはいい過ぎの言葉が見付かったからこれまでのようには沈黙していられない。好き嫌いを越えた人がどんな方法を持っていてもあり得ると思うわけには行かないかぎり、興味がないのにドゥルーズを考えているのか、ドゥルーズは哲学ではないから興味があるのか、二つに一つを問い詰めなくて気が済まなくなる。

僕がヒントにしたのは、哲学者ジル・ドゥルーズが反精神医学者フェリックス・ガタリと組み、哲学的な正しさなどかなぐり捨てて書いた『アンチ・オイディプス』(1972年)でした。

『構造と力』刊行30周年 via REALKYOTO

浅田彰はドゥルーズを必ずしも哲学者として見てないために興味を持ってドゥルーズ主義者になったんだと考えて良い。

言葉遣いは精妙だし、ドゥルーズの良さをしっかり掴んでないと「哲学的な正しさ」と誰にも分からないはずだけど、僕にいわせれば誤りを喜ぶ哲学の判断力そのものは本当はドゥルーズでさえも借り物の概念だから「器官なき身体」(アルトー)とか「万里の長城」(カフカ)なんて言葉から思い付いたみたいな感じだし、余程、知覚が優れてないとオリジナルには発想できないはずのイメージなので、ドゥルーズへ向けて方法論での完全性への要件として実質的に口に出したらそれこそ破格なまでに〈暴力的〉だろう。

浅田彰は誉め殺しにも近い。理論の整合性ではなくて「哲学的な正しさ」はドゥルーズには端からなかったと僕は思う。ドゥルーズが偉大な哲学者なのは超越論的な精神の判断力そのものの在り方を人々の認識に組み込んだ以上でも以下でもないのではないか。たぶんアルトーとカフカが大きくて二人からイメージを掴んで方法論の基礎付けに取り入れて詩的な概念と共に成功したはずだ。ドゥルーズは人間の感性の効果としての性質からは把握されない特殊な判断力に気付いていた、いってみれば。借り物の概念に依拠しているとすると、表現上、人々から言動が神秘傾向に見られても仕様がないだろう。だからドゥルーズが哲学者かどうかは重要だし、思考が本格的かどうかがテーマにならざるを得ない。手持ちの言葉の実質が経験されてないかぎり、哲学でなくとも作品に打ち出せたはずはないけど、ところが人々の認識に組み込んで方法論は一般的に成り立つし、誰にでも超越論が精神としてあるに違いないと初めて明かしたんだ。

結果から捉えると詩的な概念がなぜ必要なのかのドゥルーズ哲学の意義を押さえている浅田彰は素晴らしいし、やはりドゥルーズ主義者そのものだけど、認識としてはおよそ詩的な概念だから反哲学みたいな形で結び付けてしまう格好なのが本当に面白い。

いい換えると浅田彰はドゥルーズ主義者として《精神の超越論的な水準》を少なくとも詩的な概念を通じて生きているのではないか。

ドゥルーズには自分は哲学者でなくても構わないみたいな雰囲気が濃厚だからそのままというか、妥当に認識すれば間違いなく、外へ出るような思考なので、哲学者としてのみ理解するのは難しいはずだけど、方法論的な哲学の特徴だから避けられないと良く分かる。