2017年3月24日

ハーバード白熱教室に正解はなくて良い

かつてテレビで観て衝撃を受けたハーバード白熱教室は本当に珍しかった。類例のないテレビ番組として記憶に著しく刻まれてしまったという他はない。振り返るとよもや日本で制作されてなかったのも辛いかぎりだろう。

アメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義が放映されていた。講堂の熱気が凄くて学生たちに勉強へのやる気が漲っていた。授業が対話形式で進められていて学生たちがマイケル・サンデルの思いに触れながら吸い寄せられるままにどんどん巻き込まれて行って一人残らず、考えなくては行けないというか、身を乗り出しながら取り組まなくてはあり得ないみたいなイメージだった。

学校において盛り上がる授業がよもや骨董品ならば「良い仕事ですね」(中島誠之助)と誉め千切られるくらい教育の鑑に見えた。

僕は少ししか気に留めなかったけれども教育論を踏まえると日本の「ゆとり教育」に引っかかっていた。現在は「脱ゆとり教育」とはいえ、上手く行くためにはハーバード白熱教室の熱気が最低線だったのではないか。本当に物凄く難しいので、子供たちに知的な好奇心を与えるにはそれでもまだまだ自主性を勉学に勤しむと朧気にも引き出させるには至らなさそうに考えると国が偏に取り下げるのは如何にも尤もらしい。

畢竟、浅田彰が憂国的に呟くほどに巡り巡って世の中から後ろ指を指される日本人が大半なのかどうかは又別の社会性にせよ――ドゥルーズの「ミクロの政治学」とは何か――たぶん僕がブログで明白に取り上げたから国民の様相は変わって来てしまうというのも実況かも知れない、同じように重ねてみるかぎり。

むろん僕と浅田彰では知名度は天地の開きも吹き出すくらいかけ離れ捲ってはいるものの面白いのは「私はダイナマイトだ」(ニーチェ)なので、本当に良いものとか真実なんて知識は皆が力強く欲しがるから世の中に広まるかどうかは作者の知名度では必ずしも計れない。

考え方はスピノザから来るよ、きっと。知識、または経済ならば商品なんだ、一つの喜びに胸打たれて引き付けられるのはなぜかとニーチェもドゥルーズも浅田彰も本当に良く分かっているから僕も危ないというか、意見が合わなければ厳しい立場へやはり追い遣られがちだ。さては仕様がないから「共通点」(スピノザ)によって生き延びるしかないと思う。食い違っても完全に不味いわけではない。さもなければ三人ともスピノザについて分かっているなんて些かでも出任せに過ぎなかったはずだ。僕にはあり得ないし、今此処で気持ちを書き直しはしない。

真っ直ぐに見詰めながらハーバード白熱教室は頼もしいと熱気だけは間違いなく受け入れながら授業内容までは特に考えずにいた。

さもなければ、マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」のようなアメリカの有名大学の「知」がすべてを呑み込んでしまう。それこそ悪しきグローバル化じゃないでしょうか。


浅田彰のブログで見付けて個人的に胸が痛んだ。どうも不味いらしい。引用するのが厄介な箇所で、社会学の専門家でもちょっと分かり難そうな極めて分析的な文面だった、人々にも短過ぎれば知覚の射程が掴めなくて何がいいたいのかが伝わらなさそうだ。

ブログの纏めとして置かれていて国内の東日本大震災への様々な対応や東アジアの変動する経済に伴う各国の驚くべき文化的な情勢を弁えながら《知識の在り方》がはっきり問われていると本質的には受け留められた。

ハーバード白熱教室が頂けないと槍玉に上げられてしまった格好だけれども僕としても以前から熱気とは外れて訝られていたかぎりは本当に授業内容にも改めて触れておくしかなくなるよ。

結論からいうとアメリカなんだ。アメリカの国民性が出ているし、皆で話し合って国でも生活でも真実とは何かでも追求して行く《知識の在り方》が端的に発揮されているのがハーバード白熱教室で、学問とはいえ、まさかエンターテイメントに近いようなところまで完成度が高く仕上げられている。

日本ならばおよそ対照的なスタンスだろう。思考というと一人で部屋に篭って座禅しながらか、机に頬杖を突きながらどうしようみたいな感じがしてしまう。他人とは全く相容れないイメージで孤独と共にひっそり味わわれ得るんだ。

古典的には「あはれ」(哀れ)や「をかし」(趣き)だったかも知れないにせよ、徐々に洗練されながら近現代へはわびさびの境地などが独自にきっと生まれて来たりもするわけだろう。

鶴喜そば
Otsu Tsuruki-soba by 663highland (Own work) [CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

浅田彰はそうした全てを消し去って良いのかと喉から血が出るまでに訴えかけているとも気持ちは過言ではない、だから人々へ。

日本だけではないし、外国には外国の《知識の在り方》がありそうというと僕は日本から一歩も出てないから実地には良く知らないせいだけれどもメディアで多種多様に出会うかぎりは頷いて良い。

翻って国内へ向けてはちゃんとできているかどうか、伝統が全てではないから誰もが常識に則って大人しく生きる必要はないとかりに馴染み薄くても日本人としての自覚を持たないままでは国は直ぐには滅びるくらい変わらないと物語っているのが浅田彰の言葉遣いだろう。

人間的に解釈されて然るべき世相としては「悪しきグローバル化」の「悪しき」のせいだし――アメリカのスタイルに抵抗しなくてはならない論証を強いられるために認識が《社会的な個人性》では解決できない/妥当に日本のスタイルとは何かを突き詰めると先ずは自覚が必要なんだと気付く――自覚だけでは中身が心配だから国も厳しいのではないかと僕はいいたいけど、ただし人々の生き方へ口を挟むのは時間がかかるし、ブログで頑張っても訪問者が少ないと駄目なので、せめて切欠だけでもあれば良いと受け留めたい。

浅田彰は自覚と口に出してないから実際には切欠も雰囲気だけど、持論からマイケル・サンデルを軽く叩くという自己表現での理詰めの説得力は自覚にかかっていると思想的に見聞された。

強く叩かないのは正しいし、ハーバード白熱教室を通してしか心のままに肯われない方法だ、僕が探ったようにアメリカが命題ならばハーバード白熱教室もはっきり否定しても仕様がないので、大元はアメリカがどのように振る舞っているかを知らなくてはならないけど、とにかくマイケル・サンデルが「グローバル化」に影響しているかぎりは全く否定されなかったとは感じるべきではない。

どうでも良いと思われるかも知れないし、またはなぜなんだと考えられるならば僕からはハーバード白熱教室とマイケル・サンデルはセットにして把握しないと浅田彰の意見は分からないと告げるだけだ。

つまり「悪しきグローバル化」はアメリカに基づくかぎり、受け取られ方は同じだからおよそ僕の説明でも構わないようだけど、ハーバード白熱教室とマイケル・サンデルのどちらかだけに意味合いがかかると感じると対象としてぼやけるんだ。

気付くのは国際関係への認識は重層的だから難しい。全ては国を負っているせいだ。人間と物事を一挙に捉えないと認識を取り零し兼ねない。

因みに人間観察にも当て嵌まる。性格において把握するので、人間と言動をばらばらに捉えていたら与えた印象は相手からどんなふうに味わわれるだろう。人それぞれの感想にせよ、個人的には《真実と合わない目線》という胸のうちが本音だ。一挙に捉えると思考はすんなり纏まるし、性格も良く認識されているのは確かなはずなので、ひょっとすると頭が良いと唸らせるからなるべく心がけると愛好されて生き易い。

マイケル・サンデルのハーバード白熱教室そのものについては改めて調べてみると学生たちは実際的な議論を迫られていた。ただし問題提起の仕方がアンビバレント(両義的)なので、それ自体は空虚だし、どんなに思考しても真実が遠ざかるばかりの授業内容と評価せざるを得ないだろう。だから教育として懸念しながら今正に思い起こせばテレビ番組の第一印象も不可思議だったよ。

実際的な議論が求められる状況にも拘わらず、なぜアンビバレントな主題が取り込まれる必要があるのか、問題提起において。

マイケル・サンデルのハーバード白熱教室での狙いを推測すると誰にも納得できない物事へ延々と取り組むのでは猟奇的/病んだアメリカだから学校そのものは健全的/冴えたアメリカならば皆の意見を尊重して欲しいと徹頭徹尾に教え込むためだ。

もはや国柄の「Justice」(正当性)も社会の裏表/猟奇的なことと健全的なものから精密なまでに導き出されて概念化され得るし、マイケル・サンデルの思考そのものは理論的に圧巻の揺るぎなさを示して止まなさそうだ。

日本にとってそれは情念的ではないために偶然に受け入れるのは不合理だといって良い。社会の裏表への真相は他の国にもそれぞれの認識があるから得てして国際関係で混同するならば気持ちは穏やかではなくて《生存論の衝突》を誘き寄せる、恐らく。世界中の些細な日常と地球を守るかぎりは絶え間なく用心するべきだ。

ハーバード白熱教室はアメリカの個人と自由という最も素晴らしくて良い面、一つの世界観とも過言ではない、僕にとっては素敵な国だと感じるようなところを非常に巧みに授業に取り入れているのではないか。

皆が自分の意見を持って他人も同じように納得しながら生き合う。そのために敢えて思考上は収拾の付かない舞台装置によって真実を遠ざけてでも思い思いになるように議論を仕向けているとすると本当に凄いし、超賢い。

学校の授業だけれども正解は要らないんだ


学生たちが自力で思考して共々に思考する他力を経験しながら人間的に成長できるかどうかが真面目に試されているならば教育としては決して冗漫ではないと微笑む。最終的にはマイケル・サンデルが自説によって締め括るのかどうかは何れにしても予め想定されるよりは皆の意見と合わせて相対化されるままに深い気持ちを込めて称賛するしかないだろう。

今又、浅田彰を念じて確認すればアメリカの教育現場の底力を熟知しているのかも知れないし、いつも世界を飛び回っているばかりの様子なので、日本も本当に「悪しきグローバル化」を全般的に押し退けながら皆が日本人として努力するべきだとしかいいようがない、知識へ向けて。

僕としては勉強で大事なのは自覚だし、生活をどうするかは中身を伴えばもっとずっと豊かなはずなので、毎日の精進だけは怠らないように望んで行きたい。

2017年3月22日

スピノザの生活規則を良い知性から僅かでも理解するための思考

久し振りに知性改善論スピノザ)を読み返してみた。といっても時間がないし、速読もできないので、一時間で数十頁しか進まなかった。

しかし相変わらず、文章が手強くて通常よりも読解を迫られると驚かされる。作家の気質としては学者そのものだろう。細かいところまで日常生活に支障がなくても取り上げて認識に纏めないと不誠実だと思ってしまうのではないか。

学校嫌いの口癖ならば「勉強しても生きるのに役立たない知識」が多くて辛い。

ただし大事なのは世界を理解するために必要なんだ。背を向けるほどに認識そのものが曖昧になって社会へ出ても分からないままなので、経験に対しての判断力は学歴通りで止まってしまうわけだ。後から独学しなければ生活力としても上がって来ないかぎり、もはや学校で済ませるのと中身は同じだろう。人生設計を効率的に組み上げるならば最初から勉強好きの気持ちが期待される。

僕の言葉遣いも概念は難しいかも知れないし、例えば世界といきなり聞かされると皆が躓いてしまいそうだ、心で。個人の内面というか、厳密には《自我論的な宇宙》を指し示している。なので世界が理解できないとなれば自分らしさがないという意味合いが非常に大きい。幸せとは何か。そこに判断力が欠けていれば世の中に振り回され易いし、良い人と悪い人がどのくらいの割合で算出されるにせよ、やはり幸せを得られる出会いも偶然でしかない、根源的に。自力で何とかしかしたいのがきっと人類なんだ。

アインシュタイン相対性理論ゲーデル不完全性定理を分からなくて誰も死にやしなくても学問の全ては必要なのではないか。

現代では本当に問われる。学者が無駄な研究に大金を使うのは社会問題だし、アメリカもだから宇宙探査を縮小しながら中国に経済どころか科学ですらも後塵を拝しかけている。どんな勉強が有益なのか。人類の日当たりが探られているといって良い。中国だって無闇矢鱈に取り組んでいれば直ぐに資金は底を突いてしまう、求めるよりも。コンピューターが開発されて見聞できる世界が物凄く広がったせいではないか。作り出したのは人間だから頭脳が進歩した結果なのは少なくとも間違いない。

何がいいたいのか。勉強は知識だし、どれもこれも繋がっているわけならば生活力に加えるためにはたぶん理解力が前提条件だろう。実地に方法といえば哲学だけれども知性とするとスピノザが僕は気に入っているので、文字通り、知性改善論は久し振りにちょっと読んでも面白かったし、ブログで取り上げたくもなって来る。

スピノザの書斎
Spinoza's room in the Spinozahuis Rijnsburg by MLWatts (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

知識について人類の日当たりが探られているという射程からは倫理学こそ現代で重視されるから知性が欠かせないし、スピノザは哲学との境目で思考しているので、本当に興味深い存在として浮上してしまいもする。

かつて古代ギリシャの倫理学的な哲学(どのように人は幸せに生きられるのか)を刷新したのがスピノザかも知れない。エピクロスとストア派の対立でいえばスピノザはストア派を喜んで徳の見方を楽しんだというと情動的だけれども本当なので、知性しか相手にしないから両者の是々非々も優劣では直ぐに分からないせいだ、それこそ誤解が絶えない。気持ちからすればスピノザにとってストア派は喜べるから良いし、楽しめるゆえに正しいと主張されるだろう。僕はスピノザ主義者だけれども思考において余りに甘過ぎるから言葉遣いだけは徹底的に批判しなくてはならない。自分の幸せが他人の幸せと同じかぎりでしかスピノザの認識は生きるために合理的ではないわけなので、倫理学上は国家論の民主主義で世界的に実現される構想にせよ、個別性が具体的に示されないと不味いのではないか。マルクスならば「歴史」から、ドゥルーズならば「差異」から批判的に継承しているようなスピノザへの取り組みが現代的には欠かせない。僕は言葉遣いが不味いと感じるけど、情動的に受け取られなければスピノザの論証には無理がないと予測している。だからスピノザ主義者は止めないし、思想的には批判するべきではない。皆一緒なのはあり得ないと引っ繰り返すと頷かざるを得ないはずだよ。だからスピノザを否定するのは社会学的に恐ろしいし、素晴らしいカフカの小説もたじたじの《孤独そのもの》を人々は強いられてしまいそうなんだ。宇宙の星々も相互作用が働かなければそれぞれに向かい合って何なんだろう。スピノザは事物の本質からしっかり知覚しているので、触らぬ神に祟りなしというか、かりに個別性を具体的に示すにしても《摂理を吟味する精神》を抜け出すのは厳しい。ガチンコで対立してみせたマルクスやドゥルーズは人生に美しい理論を独特にも仕上げ切ったし、二人がいなければ僕も理解力が下がったのは確実だとすると敬意を払わない理由はない。挙げると前者の「共産主義」と後者の「リゾーム」の発想はしかし僕にとっては逆に厳しい問いを投げかけられていた。どうすればスピノザを起き上がらせられるだろうか。思想上、致命的なまでに殺されたに近いという。痛みに置き換えるとスピノザの発想では「民主主義」と「絶対無限」が概念的に弱かった。理論的にいえば何れも哲学として読んでは駄目なので、倫理学者だからスピノザの思いが著作にはっきり編み込まれているせいだ、全世界へ寄せては思考が充足的には纏まり得ないにも拘わらず、マルクスやドゥルーズは勝手に纏めて読んで無理と結論を出したとしか叩きようはないだろう。二人とも思考そのものは曲がってないから思想上も打ち倒してしまうのは勿体ないと僕はマルクスとドゥルーズはスピノザについて間違っていると断定するつもりはない。ただ読み方が合ってないというか、これもスピノザ主義者にとって指摘しないと厳密には無効な理屈なので、偶々、利用されたのはなぜか、スピノザの何が二人の勝手を許したのかとむしろ内省するべきだし、反駁するべく、ストレートにパンチを繰り出しても踏み込んだ一歩目から自分自身が崩れ落ちるばかりだろう、詩的にいって。自己流だけれどもスピノザの読み方を素晴らしく解き明かすためには知性を哲学的な方法と倫理学的な思いで区別できるかどうかにかかっていて前者はカントによって専門化された(可能性において感性/直観と統覚と判断力の理性の概観を提起した。肝心要の物自体が確実性ならば認識力は存在論的にずらしても志向性としてそのうちへ知覚主義によって蜻蛉返りするのではないか。好んで現象学的に還元するとイメージがざくざく増産されて来るから《知識の宝庫》だと止められないくらい面白いところだ。概念的な総合についてはスピノザの自然観(不自由とは何か)と噛み合っているから精神上も押し並べて秀逸だろう。ひょっとすると知性が同等でもデカルトの方法論(不完全な人間)では行き詰まり兼ねないと「脱科学=哲学」の文脈に気付いた結果だから認識力の実効性は相当に高くて倫理学的に検討されるモデルまで明かしているように考えられる)と見受けられるけど、とにかく後者こそ明瞭化すると良いはずだ。

注意すると精緻化ではない。さもないとやはり哲学だし、スピノザの方法と知性の癒着を瓦解できない。可笑しいけれどもやおら詩的とはかぎらない認識が求められるんだ。柔らかいはずなのになぜか切り放されると固かった。僕がスピノザに目を丸くしながら知識を追い求めるのは自然の摩訶不思議な有り様に触れられるせいかも知れない。およそ水が蒸気や氷に変化するのは驚かない。結果ではなくてスピノザには原因から現実的には《生成の秘密》が知覚されていて「変状」と概念化されている。ただし用語法でしかないから意味合いはどっちでも構わない。認識においては因果関係の世界は前後不問のイメージなので、なせならば神が永遠に自己表現を実体上で取っているせいだろう、仮説と実証に食い違いが出て来れば却って観測者の能力が訝られずにいない。科学では難問中の難問だし、現今ならば「反証可能性」(ポパー)がどこまで通用するのか、調べると古代ギリシャのエピクロスの原子論で「逸れ」と呼ばれたような現象が本格的に確認され出してそうな情報も掴まれた。学説通りに物事が進んだり、進まなかったりするならば科学とは何かの知識そのものが揺らいでしまわずにいないわけだ。たぶん実験する装置の設定が合ってないだけかも知れない。詳しいところで塵一つで分析がコロコロ食い違うとすると観測者の能力へ限界が察知される。まるでコンピューターで無限を数え出しては誰も最後の結末へ追い付いてはならないみたいな矛盾が一本気に指摘され得る。浅田彰バタイユを手放せないのと同じ理由ではないか、突然だけど、しかし文学的にいって。図書館の勤め人に過ぎないと発想そのものは定式化しつつも「禁止と侵犯」の題目には心を奪われているみたいだ。科学における実証の経験とイメージで被っているし、根詰めてそれが当たり前の世の中にならないともかぎらない。戦争では透明人間になれる服なんかもう既に開発されていてよもや実用化されたら日常生活がパニックに陥るのではないか。バタイユの眼球譚さながらに/おぞましさ/がやって来てからでは遅いので、それを食い止めるためには倫理学が是非とも欠かせないからスピノザの思考が生粋の倫理学者として見逃せないし、僕はスピノザ主義者として皆よりも分かるかぎりは自作として完成させなくてはならない。いうまでもなく、インターネットで公開しながら人々が近付けるように努めて行くんだ。

知性を倫理学に引き戻して哲学とは用意周到に切り放しながらスピノザの倫理学の思いからこそ知性を概念化しなくてはならない


精神上、大規模に把握するためにはスピノザでもエチカの第四部の「人間の隷属あるいは感情の力について」を熟読しないと理解力は物足りないかも知れないけど、ただし怪しいのは哲学は良いと持ち上げるような主知主義的な立場が露呈しているんだ。スピノザにとって哲学とは何かまで吟味すると思考へは文字数が増えて今直ぐにはどうしようもないにせよ、詩として《知性の有り難み》と歌えば簡単に済んでしまうくらい飽くまでも倫理学の観点から来ているムードだし、口に出している気持ちのはずなので、人々は愛し合っていると思わせてくれるのが哲学と捉えるのが読み方としては適切なのではないか。僕ならば作詩だけど、とにかく生き方から納得するべき言葉遣いなので、主知主義的な立場についても意味合いがやはり哲学的な観点からだとはぐらかされる。往復書簡集にあからさまな反対論との結び付きが避けられないのもスピノザなので、哲学者としては幾らでも叩かれるというか、信念が如何にも緩くて一見すると理論が綺麗に回っている様子だけれども整合性は薄いし、どうしてスピノザ、またはスピノザ主義者だけが花畑並みに肯定されるのかが分からないままに論議も漂白されてしまっている。宗教と区別できないんだ、要するに思考そのものが。スピノザが神に基づいて自分たちは世界を突き進むとなぜ受け入れたのかは難しいというか、認識上、命題として取り上げるのは本当に苦しい。その気になれば幾らでも叩ける(西洋では決定論だから身動きが取れないとか東洋では見ながらにして煩悩の塊なんて)わけだから哲学者としては重視しても仕様がないのではないか、軽視して構わなければ僕の《知性の有り難み》のイメージで事足りもするわけだけど、思索の理論的に薄い整合性の中で、スピノザの信念をエチカの第四部の明白な主知主義に立脚して逐一と網羅するには手間がかかるし、煩雑な議論を避けられないんだ。ベルグソンならば「スピノザは最も難解な哲学者だ」と認識したらしい。不思議な方法を人間的に備えている。整合性が薄いからこそ手を付けるのに苦労するべき理論に仕上げられたに違いない。巨人が小人を掴めないようだ、揃えた指先の隙間が大きくて。実質的には理性が徳だから哲学も正しいという推論だけが必要なんだけれども出だしだけでも三十分くらいかかる。さらにさらに概念系を解析しないと哲学ならば駄目なので、気持ちも引き離されがちだ。三十分とは何か、解析とは何か、思考が止められてしまう。早いとしか説明できない。余韻からイメージを掴んで概念を作り上げる。手に入れたイメージの真偽が絶えず、問い直されるからすいすい理性を進められない。何だって良くない。時間が三十分と伸びると嫌になるし、抽象化が解析と要るのも不可解なので、なぜスピノザはやるのかを訴えられるせいだ、胸のうちへ。入り口の二つだけでも折角だから纏めるならば世の中には哲学が分からない人もいるから幾何学的なスタイルが必要なんだろう。エチカは幾何学的なスタイルで哲学が分からない人へ向けた思想なんだ。とするとスピノザこそ避けて通りたがっていると結論されるから中身は言語を絶するほどの状態ではないか。分からない人を踏まえて思考される哲学では知覚的に埒が開かないのに幾何学的なスタイルで超越される方法といわざるを得ない。知性を基軸にして概念を、目一杯、主知主義に巻き付かせるような精神がスピノザ哲学のエッセンスと感じられる。推論にしては力強いと仰天されられるにせよ、方法上、思考の比重は哲学よりも思想が重くておよそ信念を把握するならば自然の一部が神の名の元に確固と示されているために知識へと超越論的には引き剥がせない。スピノザにおいて主知主義は絶体絶命の様相を呈しているし、哲学も人生と完全に合致しているので、人間的に逆向きに明かせば知性は理性よりも経験を多く含んだ概念でなければ不当と取り下げられる。

注意すると出会いと別れのこれも前後不問のイメージなので、理論と実践を分け隔ててはスピノザ哲学にはならないし、二つを併せ持つゆえに整合性も薄いのではないかと分かって来るんだ。できないままにいいたがらない。知性がなぜ哲学を生むのか、徳の理性に正しく由来する真実は思想的に「神=自然」から齎されるならば沈黙されても仕様がないし、それしかないわけなので、もしもスピノザが哲学者ならば素敵な世界と称えるべきだろう。可笑しいのは善悪の基準が神以外の手に及ばないところで、奥義的にいって人間性が素晴らしい所以だし、無言の認識が妥当ならば知性から哲学を生み出すためには神経が公平かどうかの思考が欠かせないとスピノザは告げているに等しいはずだ。

素晴らしい人間性は倫理学と詩的に呼べる。生活で体現されたとすれば哲学そのものだけど、無言の認識では決定不可能だから端的には気持ちは無責任とスレスレなかぎり、夢見て取り組むのが美しい。

スピノザの倫理学的な知性は概念化された。整理すると神経が公平かどうかの思考は《激烈に難解》だからきっとアルトーのエッセイを参照しながら事実上は解明するしかないけど、しかし素晴らしい人間性で一般的には納得される。イメージの謎めきまで取り払うならば神に託されても絶体絶命に引き受けている真実のために思考の正当性を是認したい。

スピノザが「コナトゥス」(自己保存)というのと言葉遣いの中身は同じだけれども理性だと哲学に結び付くし、知性そのものの効果としては倫理学と神明的に直結するわけだ。

どう必要なのか。知性改善論によると「若干の生活規則」として三つの項目が挙げられていた。非常に気に入るし、生活が豊かになりそうだ。

一、民衆の知能に適合して語り、且つ我々の目標達成に妨げとならないことなら、すべてこれを避けないこと。なぜなら、出来るだけ彼らの知能に順応すれば、我々は彼らから少なからぬ利益を得られるし、その上、こうしておけば、我々が真理を説く際、彼らは喜んで耳を貸すだろうからである。
二、快楽は、健康を保つのに必要な程度において享受すること。
三、最後に、生命と健康を支え且つ国の諸風習――我々の目的に反しない限りの――に従うのに必要なだけ、金銭その他のことを求めること。

バルーフ・デ・スピノザの知性改善論(畠中尚志訳)

人々と打つかり合わない暮らしが大切なんだ。注意するとどれも節制が施されていて本当に大切なのは世界を知るかどうかなので、そのための「若干の生活規則」と覚えておかなくてはならない。スピノザにとっては理性的に生きられると最高に幸せだから三つを挙げながら生涯にわたって支障を来さないように練り上げられているわけだ。

平和の理念に反すると矢庭に疎ましく感じるのは快楽だ。自分一人で味わっていたら他人と打つかるのではないか。嵌まればキルケと攻められ易い。止めないと信条的に無理があるけど、しかしスピノザは健康にしか言及してない。健康以外の快楽は概して求めてはならないわけだ。もしも攻められるとしても相手は病人だけだろう。病人は悲しみに暮れているから誰かを健康でも妬んだり、恨んだりする観念は持たないとすれば本当に良くできているアイデアだし、自然もまさか完璧だろうと腑に落ちるほどに理性が勝つと気持ちが風に包まれながら持って行かれてしまう。

まず快楽について言えば、心はそのとりことなって、あたかもそれが十分満足するべき善であるような気持になり、それによって他の善について思惟することをひどく妨げられる。一方その後には深い悲しみがつづき、それがたとえ精神の働きを止めないまでもなおこれを混乱させ、遅鈍にする。

バルーフ・デ・スピノザの知性改善論(畠中尚志訳)

説明抜きに書かれていて快楽はエチカでも理解するのに苦しまされる。なぜ悪いのかが見えない。分けても「その後には深い悲しみがつづき」がちんぷんかんぷんではないか。薬物中毒の禁断症状くらいしか思い付かないような口振りから洞察されているせいだ。

快楽には常習性があって何度でも繰り返したくなる経験として概念化されているという認識が妥当だろう。

すると健康に快楽が指摘されるのも頷くだけだ。何にせよ、疲れ果てる。欲しがって手に入らないまま、長引けば憔悴するし、ほんの短い間でも弱るかぎり、積み重なればいつか倒れないともかぎらない。普段からなるべく避けるのがやはり賢いし、節制が頼もしい。

スピノザの倫理学は「若干の生活規則」に基本的には尽きるから易しいし、直ぐに身に付けられる。三つだけれども平和の理念と健康上の快楽と言葉遣いをさらに圧縮すればもっと便利みたいだ。

学者肌というか、文面で本人の快楽の切り口からすると人は努力しなければ知識はちゃんと身に付かないという感覚が溢れているし、理性と区別するために幾分かは手間取っているらしい。つまり「他の善について思惟することをひどく妨げられる」が明らかに平和の理念に背くように叙述しなくてはならなかった。先行の「善であるような気持」だけではイメージがぼやけるための思考上の飾り付けのゆえに気難しさが出ている。快楽も皆一緒で捉えられないわけではないのに概念として個人向けに切り出されたという仕方は人々に多く受け入れられるかどうかが疑わしい。只単に快楽で健康のためと念を押すよりも最初から健康上の快楽と諸に打つければ誤解されないはすだ。一瞬でも人々が痛くても僕が激しくても誤解されるとどんな世界でも信用性は下がるから注意深く避けるべきだし――哲学者として失格と見做される理由付け/思考そのものが能力論的に最速ではなかったし、自己表現において真実は得てして後回しではなかったか/に置き換えればやはり倫理学者としてのみ読むという根拠でもある――スピノザが気乗りしなかったのは性格が余りに穏やか過ぎたせいだろう。

認識として皆一緒の快楽が切り捨てられたところは群衆心理が掴めない方法だから辛いし、政治学も汚れるので、厳しく見詰めなくてはならない。群衆心理によって人々の結束力が異様なまでに膨れ上がって国が予想外に動かされ得るかぎり、もほや社会の分析力に難点が付き纏うスピノザではないか。人々への信用性が下がる思考は僅かでも駄目なんだと反面教師、または天使性と呼ぶしかない。

倫理学は個人向けで嬉しいし、僕としてはスピノザの「若干の生活規則」から平和の理念と健康上の快楽を便利みたいだけれども綿密に引き出したかぎり、夢を叶えるために頑張って生きる。

2017年3月20日

カントの物自体が教える確実性

カントの物自体は認識論的に不可能な対象だから思考の内実は事象でしかない。

すなわち現象学における超越論的な主観性の効果として理論上で要請される直観の確実性と同一視される。

イマヌエル・カント
Immanuel Kant by Gottlieb Doebler [Public domain], via Wikimedia Commons

カントは現象学者では全くなかったけれどもそうした方法に気付いていたからこそ物自体を敢えて証明するような必要を持ち併せなかったわけではないか、哲学に。

理性が成り立つのは不可知のゆえではないのは当たり前にせよ、人間に確実性が物自体として備わっているためだといい直せばグッと分かり易くなるんだ。

歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。


カントは理性を本当に哲学的に純粋に捉えていたし、認識力を丸ごと抽象化していた。だから一つの方法として理解すると親身に気がかりなのは存在だけになってしまう。

すると諸々の概念の機能を知るように哲学そのものと出会えたかどうかが経験にかかって来るから思考を自己本意的に終わらせたに等しい。

精神に確実性は教えなので


カントは理性の成り立ちを物自体によって整合的に掴み得たはずの認識論に即しながら振れても仕様がない人生を完膚なく示唆していた。

読む気スラスラの君たちへ守るべき沈黙の作家には抜け出せない涙

もしかしたら僕だけど、君たちも読む気スラスラだから困る、昨日の午後から自作へ気が狂いそうで。

可笑しいし、本当に正気を失ってしまうならば素晴らしい思考が見付かった。経験そのものから精神とは何かを知るべき手がかりになる。というか、君たちへ送り届けるのが詩以外では非常に難しい言葉遣いを迫られずにいない世界へ生き出しているんだ。

詩と思考の命題は厳しかった。なぜなら哲学を批判しなければ永遠には辿り着けないからだ。スピノザの教えで終わらせるわけには行かないという実情はもう既に些細な日常の一つで示したはずだし、作家としても繰り返す必要はないだろう。

明かしておくべきなのは気持ちだけだ。それが分かったから脳味噌が飛び散りかけているとは漫画でもなければ涙としか呼べない。人は悲しくて泣くわけではないし、漫画ならば本当に喜んでいる可能性もあるわけで、またはゲームでも同じではないか、重要なのは泣くという涙を伴った経験としての《気持ちのメカニズム》を捉えながら君たちへは詩以外に守るべき沈黙だろう。

悩ましい。だから心苦しくも待つ。思考が開かれるまでは気持ちの向かない精神の冬だったとも過言ではない。実地には思いだから注意しよう。彼処で気持ちでは余りに歌い過ぎていた。とすると詩も又悩ましく新しく作り出され得る。ないか、そうでは。涙を包む全ては人生のためならば言葉遣いは定義されないと唱えても良い。

渋い宇宙が生まれて間もなく可愛いらしい手を伸ばして来るのだから今此処はParadiseの引き写しかも知れない。

僕はサイトのアクセスアップで生活費が稼げる暁には改めて作詩するつもりもないわけではないし、メインのブログとは又別の夢を掴んでしまっているけれども余りに歌い過ぎるという小さな小さな悲しみを今直ぐには将来へ取り上げてはならないと認めている。

時として、何かある単純な矛盾があったというだけのことで自殺してしまうような意識があるものだ。そのためには、はっきりそれとわかる、分類済みの狂人である必要はない。それどころか、健康で、それなりの理由があれば充分なのである。


引用も過度だからイメージが完全に被っているのは驚きにせよ、既視感の思い出に数えられるかも知れない、久しくも著しくこそ。

君たちから僕へのスラスラの読む気は「健康」ではないか。ならば僕の君たちへの守るべき沈黙が「それなりの理由」でなければ落ち着きは取り戻されるだろう。安らいだ気持ちが精神に思考を与えるに違いないけれども「分類済みの狂人である必要はない」か、さては発狂する寸前に脳味噌が逆回しに現実性を帯びる様子は引き付けられずにもいないし、不思議そのものではないか。

もう駄目だ、知覚は無能力に纏め得ないと存在ごと吹き飛ばされるはずだった一人の人間の問いかけが合理性によって造作なく払い除けられてしまったようだ、世界において。

僕は現実性の後に夢を並べた。作詩したいのにブログの些細な日常によってエッセイ風の日記をやっているのはなぜかは簡単だ。

いうかどうか、涙のために。君たちはアクセスアップだと思っているし、生活費だと考えている。正しい、僕が口に出している通りだし、疑い得ない。しかし読む気がスラスラだと僕は感じた。他にも何かを書いて欲しがっている君たちに囲まれながら作家として素晴らしく認められた光栄の中で、一瞬でも過らなかった沈黙がなかったとは詩人として心から後退りするべき推し量りが怪しまれた。

伊勢海老を見詰めながら酸素ボンベを背負わずに海中でどんどん息が切れて行く知覚へ呼びかける天使たちも気泡でしかなさそうだ。

沈黙を守りながら却って嫌気が差されるかどうかが人々ではない。知ってくれ、これだけは。思考のドラマに戦く私たち、ロマンの情緒に奮う俺たち、そして僕たちはポエジーを掴んだというと日本語の主語のイメージの三つの精妙な味わいに打ちのめされながら感動的なまでに気持ちとして束ねた拍子に条件付けられた言語として国家的に抱き締めるにせよ、第二次世界大戦の後では人道的に認識こそ憚られてならなかった。

日本は同盟国のドイツとイタリアと足並みを揃えつつもかつてファシズムの体制ではなかった。昭和天皇は独裁者ではないという事実が物語る歴史に触れるままに自然に尊ばれる真実があるとすれば母国語へ先ず以て節制を訴えざるを得ない。

主体的に人称代名詞を捉え直すこと、どんなに固有名詞のようにバラエティーに富んだ私たちや俺たちや僕たちが目の前に躍り出たとしても求め切れない思想のかぎり、総じて関与する自分たちへも結論は同じものではないだろうか。

だから君たちへは論理的にいって涙を禁じ得ない。飛躍すればどうだろう。僕が沈黙を破ってスラスラの読む気を君たちと同様に自分たちから削ぎ落とすなんて辛い。創作家だから確かに詰まらないと折角の栄光が落日を迎えるままに放っておくのは勿体ないかぎり、やはり涙のためにそっとしておくだけが良い。

自己表現にとって必要ならば思考は芸術と学問に席を譲るばかりだし、まさか知識へ向けて指摘するつもりはないにせよ、僕と君たちの涙はそれ自体ではスラスラの読む気を介しての沈黙なしには合理的に分からないから気持ちそのものは慌ただしさを再び増して来てしまうのも本当なんだ。

死にたい。嘘だ。だから正しく引き起こされる真実が厳めしい。どうして不本意に自殺せざるを得ないのか。最後の最後までズタボロに引き裂かれた状態なんだ。内面ではなくて世界よりも彼方そのものと思考されるならば《主体性からの絶望》と精神は概念化するだろうか、果たして。

気分上、日本の茅葺き屋根がゴシック様式の中世ヨーロッパに美意識で通低している比較文化論を尻目にインターネットでメンタルメンテナンスを呼びかけるのも手遅れと受け入れざるを得なかった。

本当に狂おしい。悩ましくて虚しい世界を知ってしまった、詩以外で――。

哲学も有用だ、よもや。詩人の言葉のように方法、または知性を生きられるせいではないか。

僕も君たちも夢見る作詩に目を瞑りながら速やかに耐えていた。幸いにも死んでないし、意を決して自殺も手控えられた時空だ。とにかくアクセスアップで生活費を稼げるかどうかへ思考を振り向けようではないか。言葉に頼らず、方法、または知性へ命を吹き込んでこそ世界は《内面化された存在》を精神的に変えて行く。すれば言葉もさらに見聞されるはずだ。

気持ちの安らぎが示した合理性とは訓戒か。今直ぐに立ち上がれなかった将来への情けなさを超越するかぎりでしか夢は現実性の後に置かれなかった。認識において精神は様々な観念の結び付きを快適に内包していると覚えておきたい。取り逃がすと気持ちは落ち着かないし、日々の習慣によって俯瞰された許容範囲、すなわち人生の見取り図を情動から示しながら偶然に傷付けられ兼ねないだろう。

僕が歌わない詩人でいられるのもそのためだった。詩なしにというか、何一つ新作を手がけるつもりもないままに詩人といい張っていると噛み付かれた。狼が襲いかかって来る。しかし大丈夫だった。

食い千切られた肉こそ祈りの趣きだった。君たちも他人事として味わうならば泣き笑いの二律背反からリアリティーを剥奪せよ。飽くまでも趣きでしか祈りではないと僕が食い千切られた肉を命じているにも拘わらず、歯向かわれるならば別れを惜しむ間もなく、人それぞれだったらしく、逸早くは頷かれたばかりの気持ちだろう。

僕が何を感じるか。引っ張って引っ張って聞き耳を立てる誰かが君たちへ凝縮されて行く仕方こそ言語上は思考でしかないはずだ。君たちが感じている柴犬、騙されて堪るか、狼と名付けられてもいっそ。言葉の謎を紐解くようにもはやミクロのさよならだけが切ないと僕は感じるといって良い。生命を秘めた柴犬ならば精神からミルクと捉え返しても逃げ隠れはせず、永遠に可愛いかぎりだったよ。

細切れの涙、沈黙も守られるほどに君たちの僕は遠ざかって行く。僕も君たちを解き放って自作への恍惚がイメージの森から馬の群れに追い越される前に休むだけが素敵な生活だ。スラスラの読む気も慣れると僅かで期待されるし、作家として十二分に満ち足り得た。

猿が近付いて来る。光の行く末から溢れ落ちたせいで、まるで宇宙塵ではないか。理性の効果をくれる。社会のそばで、胸が軋んだ。

2017年3月19日

北川景子のInstagramが偽物で削除されて

ブログを移転していてDAIGOと北川景子の結婚式の記事を改めてチェックしたら異変に気付いた。写真が表示されなかったという。北川景子のInstagramから埋め込んでいたから咄嗟にリンク先を見に行ってみると削除されていた。調べるとアカウントが偽物だったらしい。北川景子はブログしかやってなかったんだ。

参った。写真に合わせて文章を載せたから完全にバランスが崩れてしまった。試行錯誤の結果、写真の代わりに描写を「白いタキシードと白いウェディングドレス」と言葉で載せたらイメージが逆に良くなったので、笑ってしまったよ、本当に。

諸々の部分がブログの記事の全体に合っているかどうかかが問われるし、完成度に響く。狂いないほどに作品として魅力的に仕上げられそうだ。自己表現の本質からは間違いない。皆にもきっと分かり得る。

なので気付いた、自信を持つべきだと、つまり作家・詩人として。

サイトのアクセスアップに写真や動画を載せると有利だと巷で聞かれるけれども文章だけで十分にカバーできるような実力を備えているのではないか。二十年以上も文章へ取り組んでいれば誰だって描写くらい上達するに違いないだろう。文章だけならば表示速度も下がらなくて嬉しいし、とにかく合わない写真や動画を無理に載せるよりは良いに決まっているんだ。


DAIGOInstagramは本物だ。僕も警戒しているし、公式サイトにリンクが貼ってあるかどうかで判断しなくては行けない。ソーシャルメディアをやっていれば大体は相互リンクで見付かるんだ。DAIGOのInstagramはDAIGOのホームページにリンクが貼られたTwitterの「とうとう我慢出来なくて、インスタはじめました!笑」にリンク付きで紹介されていたから大丈夫だ。

大元の公式サイトが本物かどうかはホームページでもソーシャルメディアでもコンテンツで判断するしかないだろう。本人に相応しい自己表現が取られているか。すると相互リンクされた他のサイトのコンテンツも参考になる。インターネットで信用性を高めるためには公式サイトとしてホームページやソーシャルメディアは多めにやるべきというか、忙しいほどに大変ながら苦労しても決して損はしないと僕は思うよ、人々へ向けて。

北川景子については本当に良い写真(DAIGOの披露宴にオリジナルは出ていた)だったからブログにどうしても載せたい気持ちが勝って足元を掬われた格好だったかも知れない。

だから本当にアクセスアップのためにサイトに写真や動画は必要だとしてもメインでなければ考え過ぎては行けないし、メインでも自作でないかぎりは引用元を用事深く調査しないと後から面倒臭い事件に巻き込まれないともかぎらない。万一でも他人の著作権等は犯したくはないんだ。


種々と調べている間にブログで取り上げたDAIGOの北川景子への思い遣りが伝わって来るような動画にも出会した。結婚式で歌を捧げたらしい。しかし人々に注目されて改めてKSKとシングルで発売されるに至った。タイトルは「結婚して下さい」の音読みのけとしとくのローマ字の頭文字といわれる。

面白い発想だし、まさか流石なので、KSKは自分らしさが本当に良く出ているままにDAIGOならではの世界としか称えようがない。

2017年3月18日

教育論を本気で真剣に子供たちの未来のために打つにはどうすれば良いのだろう

二十世紀末、浅田彰は日本の教育について学生の学力崩壊を指摘していた。

振り返ってみると十数年後には職場で「ゆとり世代」が上手く働けないみたいな社会問題として文部科学省への教育批判が出てしまったから物凄く的を得ていたし、先んじて観察眼が鋭かったと感心する。

学校などというところは、語学なら語彙(ごい)と文法をきっちり暗記させればいい。臨機応変に会話する力とか、創造的に考える力とか、それは個々人が社会生活の中で身につければいい。果ては学校で「生きる力」を育てるなど、傲慢(ごうまん)だと思います。学校ではむしろ基礎知識の詰め込みを効率的にやって、後は個々人の自由な活動の機会を増やしていくべきでしょう。


僕が注意すると遊ぶのも大事だと少年に訴える気持ちと殆ど重なっていて「個々人の自由な活動の機会を増やして行くべきでしょう」の認識力は流石だと唸らされる。

学生へ向けて「基礎知識の詰め込み」が由々しく減っている現状を踏まえながら所轄する文部省(文部科学省の前身の教育面)への教育批判が「傲慢」と根底的に導き出される。

国の方針とすれば政治と切り放せないし、民主主義ではその後の「ゆとり世代」も含めて当時の政策に賛同した国民(有権者)に原因があるわけだ。

ただし浅田彰はそこまで含みすらもしない言葉遣いが特徴的だと思う。

一部の国民が悪い、または多数派の有権者に全ての責任があるのは間違いないにせよ、難しいのは選挙に参加しない人をどう捉えるのか。

投票しなくても賛成するつもりならば同列だけれども国への意思表示がなければ批判の文部省の法案を国会で通させた原因にはならないから考えても反対派が弱かったと嘆くに等しいし、理知的には賛成派、または支持する意見を問わなければならないというのが浅田彰のスタンス(詳しくはドゥルーズ主義者の生き方)なんだろう。

人々の痛いところは突いてなくて世の中が悲しくてもそれを生み出したはずの皆は否定しない、民主主義において。人間ではなくて題目の意見こそ浅田彰は取り上げているわけなので、何かが問題視されるならば起因としての本当に末端の何人かが苦渋を飲まされる程度の口振りでしかない。

しかし多少とも訝しいのは国の行政の是非という政治的な文脈を踏まえて考えると認識力が客観的過ぎる。学校にとって「基礎知識の詰め込み」が学力崩壊だけから主張される理由が全く示されてないので、文部省も世のため、人のために様々な議論を尽くした挙げ句に「ゆとり世代」を生み出したとすると読んでいて気持ちが入らないせいなんだ。

本当に構わないのかどうか、子供たちの未来のために本気で真剣に知覚できていると。浅田彰の教育論への吉本隆明(批評家)の反論を取り上げながら確かめてみたい。

最近の学生の学力のレベルが低いというより、むしろ、浅田彰のレベルが低い、というべきじゃないでしょうか。浅田彰は、専門だという理論経済学の分野でも、学者としてちっとも優秀じゃないですよ。


浅田彰の学力崩壊という指摘の大前提が引っ繰り返されてしまっている。

真っ向から否定しているともしかすると見えない人もいるから注釈しておくと吉本隆明が対案を持って来ないのは不正ではないと知らなくては行けない。かりに裁判ならば証拠不十分でしかないだろう。思考として捉えないと腑に落ちないので、吉本隆明は何がいいたいのかというと何もかも文部省のせいと起因としては断定した浅田彰の分析が怪しい。どうして文部省は学力崩壊の行政に臨んだのかが解き明かされてなかった。吉本隆明にとっては納得できないし、それなしに済ませるのでは「学者としてちっとも優秀じゃない」と批判するわけだ。浅田彰は「傲慢」の一言でも独自の意見を適切に纏め上げているから論説としても非の打ち所はないと思うけど、ある種の深みが足りないせいではないか、吉本隆明の肩を持てばちょっとしたインタビューでも人間性が出て来るようだ。もしも分かっていて人々に手短に伝えるにしても他に優れた言葉遣いが欲しかったみたいな悔しさを滲ませないともかぎらない。

日本の批評家の歴史というと小林秀雄から吉本隆明へ向かって柄谷行人によって二人一緒に引っ繰り返されるしかない流れが二十世紀にあった。

浅田彰は柄谷行人の仲間だから吉本隆明の逆説には憎々しさが真っ先に受け取られる。というのは「専門だという理論経済学の分野でも」は余計な付け足しではないか。本当に思考だけが大事ならば必要ないわけだし、吉本隆明は人間性こそ大事にしていると露呈しているんだ。暗黙には傲慢なのは浅田彰だと示しているに等しい。それは浅田彰も痛いくらい分かっているかも知れないけど、柄谷行人を含めて軽い乗りで良いみたいな風潮を日本に広めた、換言すれば諸々の著作が消費された《稀有な有名人》だから学力崩壊も文部省が同調している結果でしかないと読めてしまう、社会学的に探って行くと。

吉本隆明の認識力は抜本的で物凄い深いわけなので、裏返せば憎々しさも自分に対しての気持ちと捉えるべきではないか。柄谷行人と浅田彰のせいでは必ずしもないし、軽い乗りで良いみたいな風潮が文部省を学力崩壊へ近付けた前提条件に他ならないかぎり、歯止めをかけられたはずなのは吉本隆明しかいなかったと受け留められもする。つまり批評家が知識を代表するならば全ての切欠は柄谷行人が誰よりも早いはずだったから引っ繰り返された責任というか、人間性を思考よりも守り切れなかった吉本隆明こそ反省するのは如何にも自然な成り行きだったわけだ。

口には出さないけど、ちゃんとできている感じがする。浅田彰への逆説は思考において必要十分だし、人間性も仄めかすだけだから方法論的には引っ繰り返せないはずだ。浅田彰へ傲慢といってしまわなかったゆえにそれはないと柄谷行人の理論というか、一つの無根拠によっても掻き消されずに済んでいる、知識を。

因みに浅田彰が指摘する文部省の「傲慢」は認識上の帰結だから意味合いが違う。傲慢だから文部省が失敗しているならば学力崩壊だけが命題とはかぎらないし、または他に良い面があるかも知れないから当たり前には成り立たないので、皆に学力崩壊を理解するための可能性を教えてくれているだけだ。

吉本隆明が必要十分な思考を身に付けたかぎり、軽い乗りで良いみたいな風潮には歯止めがかかるけど、人間性を振り翳して浅田彰を叩かないところは読み解くのが難しいんだ。

信念に合わないのかも知れないし、論争は時間の無駄遣いみたいな美学を匂わせている。もしも浅田彰が傲慢だから影響を受けて文部省もそうなったならば学力崩壊を肯定しなくてはならないはずだ、逆説としては。思想上、吉本隆明は浅田彰のせいにするとしても掘り下げなかったので、人間性に基づいて物事を認識するのが彼にとって本性的だとしても善悪の基準ではなかったと分かるし、本当にきっと確かだろう。

浅田彰の学力崩壊への思考は社会学的には文部省を巻き込んだ軽い乗りで良いみたいな風潮に自説が繋がった部分が全くないわけではないから自己表現でも歯切れがいつになく悪くなったのかも知れない。

国の行政への指摘は飽くまでも政治的な文脈を踏まえて主観的に自分の気持ちを多く示さないと必要性が足りないし、生活上、人々からは疑わしく見られてしまっても致し方がなさそうだ。

浅田彰は秀才だから補足以上に理論に精緻に組み込めるはずだけど、教育論で違和感を与えるのは自責の念から社会学的に避けられなかったとすると逆に格好良いと感動させられるし、人間としての信用性が一段と上がるくらい素晴らしいように思われる。

どういうか。文部省が浅田彰を真似して駄目になったかぎり――厳密には柄谷行人とやっていたようなポストモダンの批評への日本人による受け取られ方なんだ――又別の意見にしても浅田彰を真似しては繰り返して駄目だから人々へけじめを付けるというか、そうした文部省へは敢えて持ち前の主張を減らした指摘を新しく生み出すしかなかったと感じるので、ひょっとすると吉本隆明の人間性からの反論を知らないと十分には見えて来なかったにせよ、正しい。

考え返すと浅田彰の教育論は本当に不可解だったし、諸々の見識がなぜ必要なのかが異様に分かり難いので、普段とは言葉遣いが、全然、違うせいだったわけだとすると造作なく理解できるんだ。

翻っては内心では物凄く大事にしていて子供たちが第二第三の浅田彰に安易になったつもりにさせないように、すなわち秀才でも知識に溺れてしまっては未来がないから阻止するべく端から遠ざけているせいではないか。

僕は文部省の「ゆとり教育」のアイデアは最高だと思うし、失敗するのは先生の育成(どうすれば子供たちに知的な好奇心を漏れなく与えられるだろうか)が物凄く難しいだけなので、方向性は理想的だから「脱ゆとり教育」と取り下げるのは勿体ないけど、結局は浅田彰に国も靡いているとすれば気持ちだけは速やかに分かっておくべきだろう。

本当に重要なのは字義通りではない。つまり「基礎知識の詰め込み」は学力崩壊の持ち直しのためとはかぎらないので、皆が一定の水準で止まったら対外的に取り残される危険性が高いんだ。日本人の学力そのものの状況はもっと悪くなってしまうかも知れない。

いってみれば勉強は恐くないみたいな仕方で些細な日常に組み込んで行かないと伸びる人も大して伸びなくなるし、有能ならばちょっと物知りなだけで周りの誰かと比べて直ぐに満足して呆れないようにすると良いので、知識は国内に平均的に揃えつつも風土的に根付かせるべきだ。

2017年3月16日

少年の職場の悩みへの認識力の社会学

家の近くでスマホの音量を上げて喋る少年がいた。中学生だったけれども卒業したのか、去年の始めから日中にぷらぷらし出したようで、不可解に受け留めていた。聞こえて来た一本の通話からはっきり分かった。先方の友達も同じで、中学校を卒業したものの短時間のアルバイトをやっているみたいなんだ。だから時間が余っていてぷらぷらし出したわけだけれども改めてちょっと悲しかった。二人とも進学せず、正面に就職もできてない。

何を望んでいるのか、周りの大人たちは先生も親も。それとも不況で、仕事が減っているからもはや短時間のアルバイトでも仕様がないのか。

一年くらい経って音沙汰がなくなった。ぷらぷら少年の毎日の勤務時間が伸びたのかも知れない。アルバイトなのか、正社員なのか、どちらにしても何もしないでいるよりはせめて益しだろうとほっとしなくはなかった。分からないので、どこかのひね曲がった道にでも迷い込んでなければ良いと思うし、幸運を祈るしかない。

NHKスペシャル見えない“貧困” ~未来を奪われる子どもたち~で、近年、日本の子供たちが学生でもアルバイトで多く働いていると取り上げていたけれども考えると世相が昭和以前に逆戻りしているのではないか。江戸時代なんか本当に当たり前だった。年少でも人間は働くべきと常識化されていて現在の途上国と日本も変わらなかったはずだ。今又、そうなりかけている。社会的に退化しているようで、耳の痛い実況だった。

ただし面白いのは僕も含めて働かずに済んだ学生が本当に勉強一筋だったかどうかは怪しくて学校に在籍しながら中身は遊んでいるだけならば働かざるを得ない子供たちこそ余程と幸せではないか。

社会的には危険だし、勉強しない人ばかりでは国もまさか進歩しないので――スマホ一つどうやって作り得るかも物理学者にしか分からない――博学を推進するべき政治が理想としては掲げられるだろう。

注意すると遊ぶのも大事だ。遊んでこそ僕も永遠の詩人になれた。高校時代にランボーカフカスピノザを読んでなかったら、または大学時代にフランス現代思想ポストモダンの批評をやってなかったら天使的な人に愛されたかどうかは決して定かとはいえないと思う。学校の授業とはさほど関係なくてむしろ遊びだった。自分が気に入ってそうした知識へ向かっていたからゲームやアニメと変わらないんだ。どう生きるかが問われていた。およそ世間一般の学習では必ずしもスケジュールに入ってないところから素性を損わずに済んだわけだろう。本質的にはそれこそ真実の勉強だと考えられるし、遊びと口に出しては事物の外観でしかないにせよ、最初から覚え込んでスムーズに追跡するのはきっと難しい。学校だけで賄われるには人間の一生を予め計算できるコンピューターみたいな認識がないと無理だから神様も無限知性の意地にかけてどんな個物にも先回りさせてくれなさそうだ。

銀色の星空の元で、ぷらぷら少年へ思いを馳せると胸を痛めたのは泣いていた。

スマホのスピーカーからアルバイトで誰かに何かを指摘されて悔しさを味わわされたらしい。

作業が疎かとかなんて詰られたのか。部屋の外の震える声が聞きながら可哀想だった。

中学校では職業訓練も大して受けてなくていきなり職場に入ってスマホの通話先の相手はアルバイトではないかも知れないけれども社員教育はないままか、その代わりにでも周りから文句ばかり付けられているみたいに察せられてしまった。

やればできるだけの些細な日常でも職場によっては忙しくて誰も彼もがいきり立っていて必要以上に見下されるかも知れないわけで、そうした経験から将来性がどうかと人間的に懸念される。たとえ上手く切り抜けても暫くして自分自身が又逆に新入りを目先の標的にするのでは世の中は変わらないだろうからかつて見下されたせいかとも感じるよね、今此処では馴染みの振る舞いの全ても。

哲学的には「ルサンチマン」(怨念)と見做されるけれどもニーチェの概念だと知らないとやはり人々にとって終わらないはずだ。

僕も最近まで驚き続けた。職場で注文の多い料理店宮沢賢治)と呼べば詩的にもせよ、ああだこうだと始まる度になぜなのか。実際に忙しくていきり立っているせいではどうにもならない(カフカ)だから救いの手は果たして虚しいかぎりだろう。仕事の効率化が根底的に問われているのに発案する方面から最前線に長々とアイデアが回って来ない。または確かめてみても発案する方面でも同じか、当たり前の現場が見えないとすれば会社全体がにっちもさっちも行かないわけなんだ。況んや「ルサンチマン」を知らない人々こそ大変だから自分で自分を律する可能性もないかぎり、最終的には「小児的資本主義」(浅田彰)そのものと憂えざるを得なくなる。

日本で子供たちが多く働きながら以前よりも知識不足を強いられると思考が遠ざかってしまうし、国や地域、そして自らの生活も得てして不況ならば正しく厳しいままに陥りがちかも知れない。

僕はサイトをGoogle検索に引っかけて必要な知識を世の中に広めるように努めるけれども現時点ではブログも一日十人がやっとだからかりに夢は叶っても人々はまだまだ持ち直して行かないのではないか。

むしろ下がり続けるのは目に見えて明らかだ、皆の認識力が全てについて。

世の中が良く分からないままに生きると人間は表象に揺り動かされ易い。原始人までは流石に戻らないかも知れないにせよ、虚妄こそ大きな人生を余儀なくされる。江戸時代ならば幽霊が実在するというオカルトから物事が判断されたりしたわけで、経験から見比べると現代ではインターネットの仮想がさらにさらに重要度を増して来るのではないか。情報を数多に取り込んで、どれが良くても脳味噌は回転中に混乱するはずだ。認識力が低いと諸々の観念を速やかに整理できなくなる。気持ちもハチャメチャになり兼ねない、奥深くで。すると疲れておよそ眠るしかないし、日々、神経が参ってしまうので、本当に世の中とは何かのような問いかけへは近付くのも儘ならないくらい落ち込むと予想される。

生活では学校でも会社でも主要な場面では規則に細かく縛られている。一々、合わせるのに体力も持たないのではないか。職場で病気知らずの若者でも大変そうに見える。インターネットで神経が参っているせいならば人間として認識力が追い付いてなかったゆえで、やり過ぎのせいではないのではないか。

すると悲しみから逃れるためには思考なしに巷の解決策を実行してばかりになってしまう。

インターネットも縁遠い頃は寺山修司書を捨てよ、町へ出よう(評論)が格好良かったけど、捨てるべき書を持ってなければ町へ出つつは投げ飛ばされたに等しい気持ちだろう、よもや空無から。

近所で、少年が本音で悩んでいたのは象徴的だったから僕も涙を忍んで聞き耳を立てざるを得なかった。

個人的にいって認識力が大切だし、諸々の情報を的確に捉えられるかどうかにかかっている。必要な知識を少しでも多く掴んで日頃から学ぶしかないのではないか、黙々と。精神の鍛練を怠ってはならないし、たとえ毛虫でも蝶になって軽やかに飛び回るように直ぐに立ち去っては知性は強化されないはずだ。納得すると美しく閃く。