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クロザルの自撮り写真の著作権がクロザル自身にないのは動物の創作活動だからだった

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写真家のデビッド・スレーターがインドネシアのスラウェシ島で絶滅危惧種のクロザルにカメラを設置してシャッターを切らせた自撮り写真の著作権がどこにあるかが分からなくて社会問題になった。

一旦はWikimedia Commonsに掲載されてクロザル自身がカメラのシャッターを押した作者ながら著作権を持たないから勝手に使って良いとパブリック・ドメインになったけど、ところがデビッド・スレーターは自分がカメラを設置してクロザルに自撮りを仕向けた共同制作者だから著作権を持つと主張してサイトのコンテンツから取り下げて欲しいと法廷での争いが起きてしまった。
2014年にアメリカの著作権庁がクロザルがカメラのシャッターを押した作者でも動物だから人間のように著作権の対象にはならないという判断を下したので、デビット・スレーターは共同制作者として認められず、パブリック・ドメインを主張するWikimedia Commonsが勝ったらしい。
デビット・スレーターはアメリカでのクロザルの自撮り写真の著作権を失ったけど、しかしそれを使って写真集を売り出していたのがさらにPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)に民事訴訟を起こされたんだ。
アメリカの著作権法では動物の著作権を禁止していないからクロザルが著作権を持つと改めて主張してデビット・スレーターの権利侵害とクロザルの代理人として権利行使を求めるという主旨だった。
2017年にPETAがクロザルに著作権はないとした判決に控訴していたのを取り下げたけれどもデビット・スレーターが自分が著作権を持つと共に野生動物を保護する慈善団体にクロザルの自撮り写真を使って出版した写真集の収益の四割を寄付すると和解が成立したらしい。
両者は共同声明の中で、この一件により「人間以外の動物にまで法的権利を与えることについての重要かつ最先端の問題を取り上げた」と述べています。

著作権が問われた「サルの自撮り」の法廷闘争がついに完全終結 via GIGAZINE
概して動物に著作権があっても良いはずだけれどもどこからどこまでが創作物なのかの線引きは相当に難しい
知的財産権の一種としては動物の精神状態が分からないと立法しても曖昧になってしまう。
人間と同等に捉えるならばWikimedia CommonsやPETAが主張するようにクロザルが自撮り写真にカメラのシャッターを押したと表現上の直接的な…

Bloggerブログでモバイルのガジェットの表示を切り替えるソースコード

Bloggerはウェブの編集のレイアウトからブログに様々なコンテンツのガジェットを設定できる。
パソコン/タブレットのウェブバージョンとモバイルバージョンにデザインが分かれている場合、公式テーマのシンプル、動的ビュー、画像ウィンドウ、Awesomely Inc.、ウォーターマーク、エスィリアル、旅行など、テーマのhtml編集からガジェットのレイアウト用ページ要素タグの<b:widget></b:widget>の開始タグに「mobile」属性を追加してモバイルバージョンのガジェットの表示を切り替えられる。
ガジェットのモバイルバージョンへの四つの指定
mobile='yes'モバイルでガジェットを表示する
mobile='no'モバイルでガジェットを表示しない
mobile='only'モバイルのみでガジェットを表示する
mobile='default'モバイルでヘッダーとブログの投稿と基本情報とページとAttribution(帰属)のガジェットだけを表示する
Bloggerのhtmi編集での記載例
<b:widget id='BlogArchive1' locked='false' title='ブログアーカイブ' type='BlogArchive' visible='true' mobile='yes'> </b:widget>
ガジェットのレイアウト用ページ要素タグでどんな内容かは「id」に記載されているので、表示を切り替えたいところに「mobile」を追加する。
注意点としてはガジェットに「locked」で「true」が指定されていると表示を切り替えられないので、「false」に書き換えなくてはならない。
もう一つ「default」(初期値)以外のガジェットはモバイルバージョンの設定が「カスタム」でなくてはならないので、表示するためにはテーマの「モバイル」から予め変更しておくと大丈夫なんだ。
他のテンプレートでガジェットのレイアウト用ページ要素タグの開始タグに「mobile」属性を記載しても表示を切り替えられない場合もある。
公式テーマのContempo、Soho、Empori…

吉田兼好の徒然草の書き出しは妙絶な日本語で覚えるのにも骨が折れなくて凄い

読んだかどうかも分からないくらい自然に記憶に刻まれる文章があって覚えるのに本当に骨折れない感じがするけれども日本の鎌倉時代の随筆家の吉田兼好/兼好法師の徒然草の書き出しの一文が凄いと思うし、妙絶な日本語ではないかと作家として学びもするんだ。
つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。

つれづれなるままに、ひぐらしすずりにむかいて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしゅうこそものぐるおしけれ。

手持ち無沙汰のままに、日暮らし硯に向かって、心に移り行く他愛ないことを、取り留めなく書き付けると、とても物狂おしいなあ。

吉田兼好の徒然草(仮名と訳文は筆者)
内容上、最後の「怪しうこそ物狂ほしけれ」の気持ちが出だしの「徒然なるままに」の何癖ない流れから驚異的に切り替えされているところが特筆に値するし、一度、読んだら容易に忘れられないほどの衝撃を与えている。
作家の良さというか、言葉で世界が変わる瞬間を鮮烈に捉えている。ただし恐ろしさを孕んでいるために只単に喜ばしいわけでもないのが、一体、何だろうと引き付けられる。精神を病んでしまうのではないかと身震いするほどの言葉遣いなのは間違いないし、考えたくても深入りするのを躊躇わされてしまう。
かつてフリードリッヒ・ニーチェ(哲学者)ならば思索の果てに発狂して最晩年は何もできなくなったといわれる。
吉田兼好が徒然草で取り上げた物狂おしさは《文章を介した思索の精神にとっての危うさ》と符合するのではないか。作家活動を健康的に続けて行くための認識、または方法への重要な示唆を与えているように感じる。吉田兼好本人には精神を病んだ形跡が全くなくて、生涯、作家として大丈夫だったらしいから参考にして良いはずだ。
興味深いのは「書きつくれば」と作家活動に自覚的だった。思索よりも文章とは何かを追求する気持ちが大きかったために発狂しなかったのではないか。しかし精神が崩壊する悲しみを捉えていた。吉田兼好が思索と無縁だったようには見えない。出家してお坊さんだったらしいので――名前を兼好法師と呼ぶ場合の法師は仏教の僧侶を指す――著作を除いても一般的に思索とは馴染み深い生活を送っていたと想像される。文章だけに終わらなかった全ては「心」を対象にした作家活動のせいだろう。胸…

織田信長が非業の死を遂げた理由は明智光秀の恨みを恐れた森蘭丸を宥め賺した人間の大きさにあり

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戦国時代に日本の天下統一の野望を真っ先に掲げて誰よりも近付いて行った織田信長本能寺の変で自らの志した道半ばに倒れた歴史は非業の死を遂げたと捉える他はないと思う。
明智光秀が謀反を働いたわけだけれども信長公記太田牛一)によれば大軍勢が押し寄せると本能寺の変で異変に気付いた織田信長が「是れは謀反か。如何なる者の企てぞ」(これは謀反か。どんな者の企てだ)と森蘭丸に訊ねて「明智が者と見え申し候」(明智の者と見え申します)と応じられると「是非に及ばず」(どうしようもない)で口を閉ざしたらしかった。
そのまま、亡くなったので――最後の最後、炎に包まれた本能寺で臨終間近には「女どもは苦しからず。急ぎ罷り出でよ」(女たちは構わない。急いで出て行きなさい)と逃がすためにいったかも知れない――織田信長の最後の言葉にもなっている。
聞くや否や違和感を受けた。物凄い弱気な発言ではないか。数え切れないほどの人たちを殺して来て戦国時代の申し子みたいな様相を呈しているはずの織田信長が「是非に及ばず」では戦う前から負けを認めたに等しいだろう。武力で圧倒的なまでに身を立てた稀代の名将としての自分らしさを完全に損っているような印象が拭い去れない。
普段から信頼を寄せる家臣に寝返られた気分的な落ち込みが普通ならば考えられるし、ちょっとした一言に過ぎなくて直ぐに猛烈な反撃に打って出たにせよ、別人の様相を呈しているのが何だろうと訝らせて止まない場面だった。
調べると本当かどうかは定かではないものの明智光秀の本能寺の変で織田信長へ働いた無謀という下克上そのものは森蘭丸によって恨みに基づいて生じると数年前から先読みされていた可能性があると分かって驚いた。
明智が恨みを持つことをも察し、密かに信長の前に出て、「光秀は飯を食いながら深く思慮する様子で箸を取り落とし、稍あって驚いてしまった。これほど思い入れていることに特別なわけはよもやありません。お恨みになることが然々だから大事を企てるだろう。刺し殺すべきだ」といったのを、信長は「否、佐和山をついに君に与えよう」といわれたそうだ。何とも森が、これより先に「父の討ち死にの跡ですから、坂本を下さい」と申したのを明智に与えられたので、讒言すると思い信じられず、果たして弑せられた。

湯浅常山常山紀談(訳出)
森蘭丸は織田信長に最も信頼されていた家臣で、抜きん出て有能だったらしい。人…

BloggerブログのSEO対策で気になるトップページの記事件数

サイトの検索エンジンからのアクセスアップ、すなわちSEO(検索エンジン最適化)対策でページのダウンロード時間が非常に重要だと気付いて試行錯誤を繰り返している中で、Bloggerブログに特有の問題としてトップページの記事件数も著しく作用すると気付いた。
必要以上に増やすとGoogle検索でサイト評価が下がって検索結果で不利になって訪問者を減らしてしまうのではないか。
多くても五件以下に抑えると良い感じが増して来る。ウェブの編集のレイアウトのページの本文の「ブログの投稿」のメインページの投稿数か設定の投稿、コメント、共有の「投稿」の最大件数で表示から変更できるけど、以前はさほど気にならなかった。Bloggerの2017年の公式テーマからContempoのテンプレートを使い出したせいで、ソースコードを調べるとトップページの記事の抜粋が一件当たりで、可成、長く記載されていてブログの容量が予想外に膨らんでいたんだ。
トップページの記事の抜粋のソースコードは記事の抜粋の分に加えて検索エンジンにサイト内容を詳しく伝えるための構造化データやソーシャルボタンの共有サイト毎の表示などから二倍くらいに増えてしまっているからサイト評価にどう作用するかが気になってしまう。
ブラウザでの表示速度が訪問者に不快感を与えるまで遅くなったりはしないにせよ、SEO対策のページのダウンロード時間には検索エンジンのコンピューターがブログの容量で判断するから厳しいかも知れない。
ブログのソースコードを減らすのが最も効果的な方法のはずなので、増やし過ぎないように五件に変えてみたら検索エンジンからのアクセスアップが僅かでも捗ったようだった。
ブログのトップページの検索エンジンでのサイト評価はブログ全体に影響するから記事ページと同じくらい大事だと思う。
今まで表示する記事の抜粋を多めにすれぼ文字数が増えるし、コンテンツも充実するからGoogle検索に好かれるのではないかと七件でやっていたけど、ところが五件に減らすともっと検索エンジンからのアクセスアップに繋がってSEO効果が高いという印象を得たわけなので、Bloggerブログのサイト作成で改めて重視されずにいなくぬる。
トップページの記事件数は反対に減らし捲っても物足りなくて検索エンジンでのサイト評価を下げ兼ねないし、訪問者にとっても詰まらないはずなので、どのくらいで表示するか…